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Column

鎌倉廃寺事典

奈良や京都のようなかつて都があったところにはその頃、多くの寺院や神社が建てられた。鎌倉も例外ではない。鎌倉に住み始めた頃、休日の朝など車や自転車で鎌倉巡りをしたものであったが、そんなころの微かな記憶としてどのあたりか忘れてしまった?二階堂が浄明寺あたり?に工事現場の目隠しがしてあった場所があった。車を降りてそのあたりを歩いてみたら、目隠しの柵の一部に隙間があってそこから中の様子を見ることができた。
そこに見たものは大きな寺の屋根が崩れて瓦礫と化した景色であった。
 鎌倉には古い寺が多いのでそのうちの一つなのであろうと思ったがその柵に掲げられた看板には保存会のような管理母体の名があったので再生されるのかなと思った印象しか持たなかった。30年近く前の話である。しかし現実はどうもその寺は再生されることはなく廃寺にされたに違いないと思わざるを得なかった。
 寺を再生させるということは特別な寺社でない限り、現代ではほとんど不可能なのではないか。経済的なバックボーンと再興させたいという強烈な意志を持った人が結びつかない限りそれは不可能なのである。

日本の寺は木造なので古い寺で創建時からそのまま、現在までの命脈を保っているものはまれである。あの東大寺にしても今あるものは創建時のものではなく、1181年の平家による焼き討ちによる全焼ご再建、1567年の三好・松永らの大仏殿の戦いでの全焼後の再建、明治期になっての経年劣化による大修理を経ているので奈良時代のものではない。古い寺で創建当時からのものがそのまま残っているなどは法隆寺を別として皆無と言えるのではないか。
したがって、旅行のガイドなどで“創建は700年ですが、現在のものは徳川家光により再建されたものです”と聞くと“なーんだ!!?”ということになり、何となく偽物を掴まされた気になるものである。
 古い寺社を再建するのは結局、金次第である。東大寺の場合は天皇の菩提寺というような存在なので、国を上げてやらねばならないというような使命感が誰もが持っているが、そんな寺以外は潤沢な資金がある寺だけが再建が可能なのである。金閣寺や清水寺は多分観光収入があるし、あのくらい有名になると支援者もたくさんいるので資金的には困ることがないかと思われる。

 今回、鎌倉の廃寺を調べるために鎌倉中央図書館の検索サイトを使い「鎌倉廃寺事典」なる本の借用できる本を探し当てて、借りることができた。この本は鎌倉市内の図書館に常備されてはいるが、全て持ち出し不可のモノばかりで、唯一、借りられるのは1冊だけのようである。
 調べたかったのは鎌倉時代の建長六年(1254)に北条時頼が二人の息子のために建てた聖福寺についてである。二人とは次男の北条時宗と三男宗政である。この二人の幼名が正寿丸と福寿丸の頭文字をとって寺院名とした。ちなみに長男ではないのが気になるが、長男の宝寿丸は残念ながら側室の子であったため、正室にこだわった時頼に冷遇されたようである。この辺り不幸な星のもとに生まれたとしか言えない生涯を送ることになる。 
 この寺院はその後、新田義貞が鎌倉を攻めた時に陣を張った場所になったり、北條高時の残党がここに籠って合戦をしたりなどをした以外は、寺社としての特別な役割はなかったようで、最後は新熊野社と一緒になり「聖福寺新熊野」と呼ばれたり、一貫した存在価値が希薄なことから、どうも廃寺となったようである。北条時宗も北条宗政も時代を超えて多くに人を帰依させるには弱かったのだろう。現在は聖福寺跡という碑と聖福寺公園という名称でしか物理的なものは何も残っていない。
 いわゆる執権、煎じ詰めれば政治家が自分の子どもの幸せを祈願しただけの寺ではその存続がむずかしいことは目に見えている。たとえばあの源頼朝が生涯、建てた寺社は3つあった。勝長寿院、永福寺、鶴岡八幡宮の3つであるが現在まで存続しているのは最後の鶴岡八幡宮だけである。頼朝は信心が深い人で、燃え尽きた東大寺なども頼朝がバックアップして再建している。勝長寿院は父源義朝の菩提を弔うための寺であり、永福寺は義経をはじめとした幕府擁立にあたっての数万の怨霊を鎮め、鎌倉幕府の発展を期して平泉中尊寺を模して建てたものであったが、この二つの大寺院はもうすでに礎石すら残っていない。しかし、立派な碑は残っているが・・・
 所詮、政治家のつくった寺社は政治目的なので当人がいなくなるとどのような人物であろうとそれを継承しようとする人は出てこないのだろう。そう考えると鶴岡八幡宮が残ったのは不思議な気がしないではないが私が思うにはこれは鎌倉という東国初の都であり、海から一直線上にある、地形的なユニークさゆえに残ったからなのではないかと思っている。たしかに本殿への階段を上り、本殿を背に振り返り、一直線の道の先に海を眺めるとかつて都の中心にあったその寺社の存在のユニークさが伝わってくる。それは一政治家の思惑を超えた存在価値によって成り立っているのである。
 
これから、寺社を成り立たせていた宗教に対して崇敬の念がますます薄れてくるのが目に見えている。そう考えると寺社は荒廃してくるだろう?そう考えると新鎌倉廃寺事典が出てくるかもしれない。
 可能性があるとしたら村の鎮守様よろしく地元の人たちによって守られているような寺社である。昨年、我が町山崎の鎮守さまである山崎天神の例大祭のようなものを街の辻にある案内板で知って出かけたのだが、その古式豊かな式典?が見ごたえがあり、最後にお詣りに来てくれた人全員に紅白の玉餅をくれて、なかなかいいものであった。あらためて街の鎮守さまのありがたみを感じた次第で、この「鎌倉神楽」は毎年9月25日に決行するらしいので今年も行ってみようと思っている。ちなみにこの山崎天神は暦応年間(1338~1341)に著名な夢窓疎石が京都の北野天満宮を勧請したものである。
                                    泉 利治
2020年9月7日

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