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Column

禅―Ⅱ

 しかし、禅というのは分からない。達磨大師は9年間、崖に向かって座禅をしてやっとわかったらしいのでそんなものなのであろう。たしかに蘭渓道隆が戒めているように本などに書いてあるものを読んで、わかったような気になることや、文字で解ろうとする行為を戒めているのでたしかにそうなのであろうが?
 以前、西欧の知性の典型と言われていたアーサー・ケストラーは禅をいわば気ちがい扱いしていた。その経緯は当時、禅について海外でもっとも評価されていた鈴木大拙と対談した後にそのような感想を言ったらしいがそんな印象を持たれたのだろう。たしかにそう思われても仕方がない。
 ただ、禅に真理があるとして解釈すると、どうも禅とは自分の本性を禅的にすることが目的のようである。禅的というのが悟りを披くということらしいのだ。自分で自分を変えるなどということ、それも根本から変えるなどということはほぼ不可能と思われるのだが、それをやり遂げた人が悟りを披いた人ということになるようだ、しかし、それを認めるのは、このような人はこのような人から見ると、どうもわかるらしい。特殊なテストの結果である?公案を解くということなのである。
蘭渓道隆は「牛過窓櫺」という無明慧性禅師から与えられた公案にこたえて、大悟したと言われている。「牛過窓櫺」とは“牛が窓櫺を過ぎる”ということなのだが、それにどう応えたのか、分からない。何も答えない“無言”も答えになる世界なので普通の人には皆目見当がつかない。
 蘭渓道隆はその公案を与えられて何人かの禅師の下で研鑽を積み、何年か後に無明禅師のもとに参じてそれを披露したらしいのだがそのあたりのニュアンスは見当がつかない。
たしかに蘭渓道隆の説法の議事録?を読むと字ズラを読む限り書いてあることはわかるのだが、何を言っているのか、言わんとしているのか分からないので、たしかにアーサー・ケストラーの言っていることも分からないではない。
 読んでいてさっぱり分からないというのも禅なのであろう。それを理解するために読んではいけないのであるし、理解という受け止め方がそもそも間違っているということになるらしい。
 
 昔「ZEN and AUTOBIKE maintenance」というアメリカ人の書いた禅の本を読んだ。主人公は心がやんだ息子と二人でオートバイで旅に出て、息子との心の交流をするという本なのだがその主人公はその旅の中で禅の心がわかる本のなのだ。こんな風な記述が印象的だ、旅行中にオートバイのマフラーが壊れてしまう、アメリカのあの広大な田舎でそのマフラーを交換するなどというのはほとんど不可能に近い。
 そして、通りすがりの村で相談に行ったのが村の鍛冶屋の爺さんだった。主人公は分けを話すとその爺さんマフラーを見てその破損したところをいわゆる溶接を駆使して修理する。 どうもガス溶接か何かで、修理したらしい。主人公は目の前で繰り広げられたその光景に唖然として、考える。その鍛冶屋はマフラーと己が一体になって修理したのであった・・・というようことを書いていた。そしてこれがZENでいう悟りの世界なのだと!
 私はそのことを読んでなるほど、そういうことかと思った記憶がある。要するに彼自身がマフラーと一体になっていたからどこを修理すればよいのかが分かったので可能になったということなのだ。マフラーについて知識があるとは思えない、村の鍛冶屋の爺さんがなぜ成し遂げたのか??という謎が作者の禅について行き着いた結論であったのだが、著者はそれで大悟した?というわけである??
 たしかに禅は何かと一体になってある境地に到達すると言われている。私の本棚にある禅の本のタイトルは「剣と禅」「弓と禅」「茶と禅」であるので、さしずめ「鍛冶と禅」なのであろう。しかし、それは剣の世界、弓の世界、茶の世界が分かっただけで、全世界が分かったことではないようである。いわゆる、その道の達人になったに過ぎないのではないか?
 
蘭渓道隆の説法を聞いているとともかく禅に関する知識の膨大さに驚くが、彼はそれをどのようにして会得したのだろうかが分からない。何となくわかることは多くの師、先達との問答によって血肉になったもののような気がする。書いたものを覚えたり、暗記したものではなさそうである。
 臨済宗における説法は当時毎月、1日と15日の二回行われる。その他、いわゆる節分や七夕などの雑節に行われる。その都度、その日や、季節にふさわしい話題などから説法を始めている。その点ではキリスト教会の礼拝における牧師の話と似ていないことはない。
しかし、そのあとの説法については10%位しか分からない。その点、日曜学校の牧師の話は分かりやすかった。たしかに日曜礼拝はフツーの人に話す内容ではあるが、蘭渓道隆の説法はプロフェッショナル禅師をめざす修行者に話す内容であるからなのだろう。日本語訳を読んでも分からないのであるからそれを中国語でやられたら当時の修行僧はわかったどうか?同時通訳をされても分からないであろうからだ。しかし、その話についてその場で質問をするのはタブーとされているらしく、質問は師と二人で行われる問答の時にするのが決まりであるらしい。

 私は思ったのだが禅の訓練とは簡単に言うと10桁どうしの数字の掛け算をメモ帳と鉛筆を使わずに計算出来るようにすることなのではないかと思っている。つまり、どんな数字を言われても一瞬に答えが出るように自分を鍛えるということである。ただ計算の対象は数字ではなく萬物についてである。
                                   泉 利治
2020年8月24日

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