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Column

 いってみれば鎌倉は禅の本場なのである。一時期、禅に興味を持った時があった、それはサントリーオールドの定期的に出るシリーズ広告のテーマが禅語や古語のようなもので、それに絡めた料理とウィスキーが載った膳が見事な写真で紹介されたものであった。
 たとえば「吾唯知足」とか、「八寸」、「節分」・・・などでそれに絡めた料理がビジュアルで、それを支える格調高い蘊蓄のある文と共に、古来の日本の食文化に呼応するサントリーウィスキーの存在を印象付けたテーマ広告であった。その見事さゆえか、後にそれは一冊の本となって出版された。あの当時、サントリーと資生堂の広告は時代をリードしていた感があった。
 しかし、私はそこにあるモノを支えているものはどうも禅というコンセプトが流れていることを感じとり、自然と禅について興味を持つことになった。また、それとは別に30歳になるかならない頃に始めた剣道でもそれに関した本を読むと禅について語られることが多く、禅に関する本を手にとる機会が増えた。今でも本棚にはそれに類する本が何冊か散見される。
 しかし、私は近くにある円覚寺や建長寺に行って参禅する気にはなれなかった。別に悟りを披きたいとは思ってもいないし、悟りを披ける人は天才しかいないと聞いた途端、それならば雑念と共に生きた方が良さそうな気がしたからである。
  
 そういう私が今、書き始めている本阿弥光悦の本の中で、北条時宗について書くにあたりどうしてもその幼年期の師であった蘭渓道隆について知らないと全く筆が進まないことが分かり、かれについて何か書かれたものがないかと調べて分かったのが、「蘭渓録」という本であった。
 この手の本は古本を探して安価な本を手に入れるのが上策とのことで探したが、一向に探せない、したがってやむなく3300円の正価で購入せざるを得なかったのだが、手に取ってみて出版日を調べたら令和二年三月二十日とあり、3カ月前に出版されたもので、その初版本であることが分かった。内容はいわゆる蘭渓道隆の講義録のような本なので750年前の本なのであるが。
 小説ではその人物の肉声を知りたい、聞きたいと思うものであるがそのような視点で見ると私の本棚にある禅についての本はその著者が解釈したものがほとんどで、ほとんど役に立たなかった。また、その中でもムック版のZENはこれまで結構役に立った本ではあったが、その本の禅はどちらかというと曹洞宗の禅で、蘭渓道隆の臨済宗とは若干違うのではないか?ということから、もし手に入るのなら臨済禅について書かれた本が読みたいと思ったのである。
 
 北条時宗という歴史上の人物、日本国始まって以来の元寇という未曽有の事態に遭遇した際のトップの心を支えた禅というものを知るためにどうしても蘭渓道隆の禅を知らないことには始まらない。ただ、北条時宗は円覚寺を披き、その開山になったのは無学祖元ではあり、実際に元寇に際して何かと時宗は祖元を頼りにしていたようではあるが、人間の基本を形づくる12歳前後の禅師は誰か?を考えるとやはり蘭渓道隆に行き着くのである。

 「蘭渓録」は優れた禅の本である。というのはこの本はいわゆる蘭渓が建長寺での上堂説法を臨場感、豊かに日本語に置き換えているからである。正直、これほどわかりやすい、生き生きとした仏教書を読んだのは初めてであった。その下に漢文が記載されており、この二つを読み比べると当時の宋朝禅の感じも何となくわかるのである。
 これまでの禅に関する本は優れた禅師の言葉より、解説者のそれの方が多く、その人物がどのような人なのか分からない、まして歴史上の英傑となると余計、枝葉が付くものである。しかし、この本の中での蘭渓道隆はまさに日本人修行者に対して解説者のような口調で語っており、当時の聴き手に同時通訳をさせたらさらに良かったろうと思われた。この記録、いわゆる議事録は覚慧、円範という二人の禅師によってまとめられたものである。
 まだ手に取って一週間もたっていない中で読んだ限り、蘭渓道隆の語る禅とは、己自身の中にある佛性に従って生きよ!ということであり、智識や理屈で禅を解ろうとするな、悟りを得たいなどと思うものではないと教えている。禅の高僧の話を聞くにあたって、要するに知識として分かろうとすることなどを戒めているのである。こんな風だ。

―あるとき山僧(蘭渓)はひそかに衆寮を回ってみた。大部分の人は筆硯を前に置き、古臭い書物を手にもち、役に立ちそうなに思われる言葉があれば、すぐに書き写しておのれの種本にする。あたかもトリカブトを穴に貯め込む鼠のようなものだ。トリカブトは毒があるので、お腹が空いても食べられない。ただ眺めることしかできない。が、どうしても我慢ができなくなり、一口だけと思って咬んでみる。その一口で命を失ってしまう―

どうも禅とは一人の人間を根本からつくり上げるものであるらしい。
そう考えると北条時宗のようにいわゆる帝王として生きる宿命を与えられた者にとっての教育にはこれ以上のものはないかもしれない。父の時頼もそれを望んでいた、そう考えると、これ以上の教育者は当時も、現在もかれ以上の人物を探すのはむずかしい。
 
蘭渓道隆は66歳で示寂し、建長寺のビャクシンの下で火葬された。その一年後、蘭渓道隆の遺骨を納めるためにその木の下に墓をつくった。700年も前の話である。それは忘れられたが最近、レーザー照射でその墓の存在が確認されたと言われている。
                                   泉 利治
2020年7月27日

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