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Column

Hotel de LA MIRANDE

 ヨーロッパに知悉していると自負していた私がローマ教皇庁が数十年間アヴィニョンという街にあったことを本で読み、こんな都市があるのだ?どこに?ということがキッカケでそこに行くことになった。
到着するのに飛行機を乗り継いで丁度24時間かかった。ドバイでももう少し早く行けそうなものだと思ったが、町の飛行場に着いた時は真夜中の12時を少し回っており、何が心配かというとホテルにはどう見ても歩いて行けるわけはないということが機上から分かったのでタクシーがあるのだろうか?ということであった。
 教皇庁があったくらいの都市という前提で、その飛行場に降り立った時の驚きは私だけではあるまい。日本の地方の飛行場より、まだ小さく。どちらかというと昔のJRの田舎の駅のようだったからである。
そこに税関はなかった?われわれはパリのド・ゴール空港で入管の手続きを済ませていたことを思い出した。ただ、私たちの荷物がどう見てもコンベアで運ばれてくるわけではないので多分、航空会社の係員がコンテナか何かを押して持ってくるのだろうと思い少し待つ。
真夜中の空港のタクシー乗り場に一台だけシトロエンのタクシーがいるではないか、といって争い乗る客もいないようであった。これもおかしいなと思ったが、よく考えると乗客を調べて機上からタクシー会社に連絡したのかしら?という感じである。こんな真夜中に日本人の家族連れなど滅多なことでは来ないからであろう。
 たしかに飛行場は郊外にあるようである。人家があるとは思えない真っ暗闇の道を、それも高速道路ではなく、一般道を走ってやっと街らしきと所に到着した。そこは街というより何か城塞都市のようなところで近代的な風物を見かけることは何もない。しかし、そのうち何とも下品な?というより似つかわしいピンク色の行灯がある。読んでみるとベトナムレストランと書いてある。なんだこれは?と思ったがベトナムが一時期フランスの植民地であったことを思い出した、フランス人にはベトナム料理は身近なものなのだろうと。
そうこうしているうちにHotel de LA MIRANDEに着く。真夜中でも飛行機の到着時間が分かっていたのか?すぐにチェックインをして、美しい部屋に案内される。確かこのホテルは四つ星であった。ただ、そのホテルがsmall luxury hotelという私の選択基準に合致していたのでここを選んだのだが、その期待は全く裏切られなかった。
部屋のインテリアが素晴らしかった。壁紙の美しさは初めて見るようなデザインであったが、何日かしてそのデザインはプロヴァンススタイルというべき独特のデザインで日本では絶対にお目にかかれないものであった。
翌朝、眠い目をこすりながらレストランに入るとその設えに目を見張る。美しい庭を望むレストランは絵に描いたようである。フランスの朝食はコンチネンタルなので基本はパンにコーヒーか紅茶なのだがそのパンに付いている他では見られないものが白い磁器のカップに入った蜂蜜である。もしかするとレストランの前の花園に来るミツバチの蜜ではないかと思われるような蜂蜜であれから何十年も経っているがその蜂蜜の味を超えるものを口にしたことはない。どこのホテルでもバター、ジャムが付く定番の品に同じようにパッケージされた蜂蜜もあるが、ラ・ミランドのようにスプーンが付いた大きなカップに入った採れたての蜂蜜を出すホテルは初めてお目にかかった。その味は間違いなくアヴィニョンに着いたことを実感させるものであった。
現在、そのホテルをグーグルマップで調べるとホテルは教皇庁の中にある。ホテルの目の前は城壁である。何のことはないこのホテルは以前、枢機卿の屋敷であったのだ。そう聞くとホテルにしては小さいのである。商業ベースで作られたホテルでないことはすぐに判ったが枢機卿の屋敷と聞いてそのロケーションの意味も納得できた次第である。

最初に戻る、アヴィニョンを知ったきっかけである。何かの拍子に「プラートの商人」という本を買った。1335年イタリアのプラートに生まれた商人の本である。この人物が有名になったのはかれが生涯において成したビジネス文書の全てが1870年に発見されたことによって中世イタリアのビジネス、生活などのリアリティーが現実と化したからである。
フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニはフィレンツェで徒弟奉公に出た後、15歳でアヴィニョンに向かう商人の一団に参加する。教皇庁のある都市でかれは在住の枢機卿などの富裕層を相手にした贅沢品や美術品を扱うことで膨大な利益を得た。私はその残された手紙の中に記載されたアヴィニョンに出会ったのである。その本を買ったのが1997年3月27日なので、私はその4カ月後にアヴィニョンに旅立ったことになる。

偶然だがこのころからこのあたりが欧米人の一部の人にとって聖地になりつつあった。ピーター・メイルという人物がプロヴァンスを舞台にした本を書いたのであるが、これが爆発的なヒット作になった。とくにヨーロッパ人にとってそこは想像以上に魅力的だったようだ。たしかにピーター・メイル自身が広告代理店に勤めていたというバックグラウンドもあったのであろう、プロヴァンスを素敵に紹介したのである。
私は英国資本の会社にいたので英国事務所の人たちがイタリアに別荘を持っていたり、金曜日の夜、ヴェネツィアに出かけ、そこで休日を過ごして日曜日の夜にロンドンに戻るようなライフスタイルを知っていたので、ピーター・メイルの本に触発されてプロヴァンスに英国人が小さなコテージくらい買うことはそんなにかけ離れた話ではなかったのであったが、実際にアヴィニョンに行ってみてそのあたりをツアーバスで回った時、このあたりのコテージなら日本円で300万円くらいで買えるだろうなと思った。確かピーター・メイルの最初に買ったコテージもそのようなものであった気がしたからである。その後、かれはプロヴァンス関連の著作で大金持ちになって、コテージどころかシャトーを購入したのではないか?
私たち家族はアヴィニョンに5日ぐらい滞在してTGVでパリに戻り、そこで同じくらい滞在した。パリでは16区にあるセント・ジェームスという貴族の邸宅のホテルに泊まった。  
後で分かったのだが、その近くにあのダイアナ妃が住んでいたらしく、彼女はパパラッチから逃れて帰る途中事故にあって帰らぬ人になった。私たちはパリの中心部から少し離れたそのホテルに帰るため、ダイアナ妃が亡くなったあのトンネルを何回か通ってホテルに帰ったのだ。日本に戻って何日かして、そのトンネルや全損したベンツをニュースで見ることになる。昔の記憶の断片がつながった。したがって・・・まさかこんな展開になるとは思わなかった。妃も、本考も!
                                   泉利治
2020年6月29日

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