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Column

通行人の英訳

 「通行人」を英語で表現する時、イギリスではしばしばa member of the publicというらしい。今回の新型コロナで覚えた一つの言葉である。
 作日、政府が一世帯にマスク2枚支給するという発表をした。それに対しての報道の大半はその政府の判断に対しての批判、中傷、あら捜しばかりのニュースを知ってほんとうにこの国のオピニオンリーダー?やマスコミには少々うんざりしたがもし、本当に国民のほとんどがそうなら“日本人って、本質的そうなのだ!”と思うざるをえない。私なんかはせっかく支給してくれるのだったら“ありがたく頂戴すればいいではないか”と心底思ってしまうからだ。別に文句のつける話ではない。
 同じ文脈はとくに一部のモーニングショウに感じた嫌な違和感である。特に某モーニングショウはそのオンパレードで、見ていて不愉快で拙宅の朝の定番番組であったが最近は一切見なくなった。これまでその理由を体制派と反体制派という単純な図式で考えていたのだが、どうもそうではないことに気づき始めたがその納得いく理由が分からなかった。
 ところが何日か前スエーデンではお年寄りのために近くにいる街に人たちがその人たちに対して困っていることを聞いて何かと手助けをしているという記事を読んだ、たとえば自分が買い物に行く前にお年寄りの家を訪ねるか電話で聞いて、一緒に買ってくるなどである。そういう輪が広がっているというが、なんともうらやましさを感じたものである。
では、日本ではどうかというと?そういう弱者に対して考え、実行するのは政府や行政、役所である。何でそんなことをしないのか?と考えたが・・・たとえば某モーニングショウではその理由をもっともらしく語り、政府をなじることしかしないのである・・・“厚労省は何も考えていないのですよ!!”ともっともらしく己の正義を論理的に解説し、自分の賢さと自分の言っていることの正当性と番組の基本姿勢をアピールすることを声高に言うのである。要するに「官」に対して文句を言うことが正義になるというのがこの国の一つの知識人の存在価値という図式があるらしいのだ?
私はこれまでこのような考えの源泉を左翼的と思っており、根底には体制派VS反体制派、自民党VS立憲民主党、が根底にあるのだと単純に考えていたが現実はどうも違うらしいということに気づいた。どうも本質は「官VS民」というのが本当らしい。
つまり、思想や主義の対立ではなく、立場の違いによる対立らしいというのがどうも本当らしいのだ。親子の対立は思想的な対立というより、どちらかというと立場の違いによる対立の方が多い。労働組合と会社側というのもそんな気がしないではない。その構造で考えると国会放送の中でのやりとりも何となく説明がつく、ともかく、官に対して不平不満を言えばいいことであり、官は官でそれを聴き流せばいいことになる。官は実行する人、民はそれをおとなしく享受する人という構造なのだろう。
 したがって、民の方は自分の役割として高齢者が困っていても自分たちは役割として何もできないのである。しかし、a member of the public になるとそうはいかないことになる。いずれにしてもpublicの意味することが何かヒントになりそうである。研究社の辞書によるとまず、公の、公共との、社会(国家・公衆の)ための・・・とあり、語源はラテン語のpublicus the people である。語の成り立ちから考えると、言葉の始まりは複数の人たちを表したのだろうが、それが公や社会をあらわすとしたならば、後天的にpeopleに何らかの変化が起きたに違いない。たとえば役割や責務などの変化で?
 公と人々は日本では結び付きにくいが欧米社会では公は人々によって構成されているらしいのだ。公は政府や役所ではないというのがミソである。確かに日本では公は人々の一票で成り立つので一見欧米社会と同じ構造になっているのだろうが、日本人の意識の中では欧米人のそれとは違うということになるのかもしれない。
 
 例のスエ―デンの話に戻ると、高齢者を助ける人たちはかれらの責務でそれを行っているのだろうが、それに対して日本人は親切心や哀れみでそれを行っている。但し、結果は同じなのである。そして、責務を担うべき人は官たる、政府であり行政であるので、おまえたちはお金をもらっていながらその責任を果たしていないと憤るのであろう。
 したがって、野党の追及もいたって感情的な変な論理性に基づいたものになってしまう。
それら親切心や哀れみの裏返しの論理であるからなのだろう。いたって感情的な話で感情に訴えたものに始終する・・・それ国会答弁の場で話合うことか?
 一ついいことは官は懸命にその責任を果たすように行動するだろう。しかし限界はある。
たとえば政府が非常事態宣言を出し渋っているのはその後の補償等に関して支払うことがこの後の経済に大きな影響を与えるからである。でもそれも尤もな話で日本政府にも財布があり、出せるお金は限られているのである。というのはこの国の国民は何でもかんでも官頼みで無制限に要求してくるからである。したがって、そのあたりを日本の官はわかっているのであろう。
 国の運営は家庭の運営と基本的に同じなのである。いくら非常事態と言えど財布をカラにするわけはいかないのは当たり前だからだ。これが収まった後にこそ未来がある。
そのあたり中国は官の思う通りに国家を運営できるのでどこの国の官僚たちもうらやましい限りだと思っていることだろう。しかし、歴史はそれが決して良い結果を生まないことを教えていた。
そんなことを考えながら唯一中国の古典でしっかり読んだ「史記」を思い浮かべたが項羽より劉邦の方が民主的だったかなと思うくらいの見識しかない。しかし、あれは項羽がスーパーマンだったのに対して、劉邦はそうでなかったのでみんなの力を借りただけの結果だったが、しかしだ、そこに真っ当な公が生まれる源流があったのかもしれない。
                                   泉利治
2020年4月20日

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