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Column

藤源治

 藤源治とは北鎌倉山ノ内のある地域の古称である。ここに屋敷を構えていた刀鍛冶藤源治助実に由来を持つ。この助実とは備前の福岡一文字助実のことである。
 鎌倉幕府は東国の武士がつくった。突然、幕府が開かれた都の鎌倉は幕府が備えるべきインフラは何もなかった。当然のことだが、都の中心が長い京都には何かとインフラが充実していた。しかし、鎌倉は武士の都でありながらその魂とでも言える刀を作る人たちがいないのは困ったことである。源三代の頃はそれどころではなかったかもしれないがそれ以後、北條家から代々執権を出すようになって、刀を作る人がいないことは何かと不便であることがわかってきた。断っておかねばならないが、ここで言う刀とはいわゆる名刀をつくれる刀鍛冶のことである。気の利いた鍛冶なら鍬や鋤を造る合間に刀ぐらいは造れるのである。そして、刀の方が利は大きいとなればそちらをメインビジネスにすることは往々にしてある。

五代執権北條時頼が京都から刀鍛冶を招聘したと言われている。しかし、ここのところは八代執権北条時宗という話もあり定かではない。しかし、私の小説ではこの賢明な父子は二度にわたり粟田口国綱父子を鎌倉に招聘したことになっている(ありうることである)
八代時宗が執権の座について、元寇に対して刀鍛冶の必要性から京都から粟田口国綱を再度、呼んだという仮説の下で物語は展開する。また、刀鍛冶もビジネス上の理由から京都から進出してきたと思われる。ただ、関東に刀鍛冶がいなかったかというとそうではない。なんたって刀が商売道具の元気のいい武士がゴロゴロいたからである。しかし、将軍が持つに相応しい名刀をつくれる刀鍛冶はいなかった。関東の名人相模正宗すらそれ以後の刀工であり、多分、国綱の下で作刀を学んだと思われる?
鎌倉幕府は当時の刀工として1,2を争う山城鍛冶と備前鍛冶の二つから名工を招聘することにした。前者が粟田口国綱であり、後者が備前福岡一文字助実である。かの有名な正宗はこのいずれかの後継者と思われるが一般的には前者の粟田口国綱につながる名工と言われているが定かではない。
その正宗は鎌倉駅に近い扇が谷に屋敷があった。その痕跡は今でも見ることができる。それ以上に凄いのはその正宗の後継者が現在もその近辺で刀鍛冶として健在なことである。800年間のつながりをもつ現存する刀工ということを考えると京都でも皆無なのではないか。現在の刀鍛冶の山村綱広氏の名前からか綱広谷として古地図等に残っており、藤源治と同じ命名のパターンであることが分かる。それは幕府から招聘を受けたいわゆる公的な機関として広大な敷地を与えられ、その他さまざまな特権を与えられていたからであろう。

こんなたいそうな話をするのはとんでもないテーマの物語りを書いてみるかと思ったからである。以前、ちょっとしたことから老後の暇つぶしとして俵屋宗達の本を書いたが、同じ柳の下の泥鰌を狙って、それなら次は本阿弥光悦と行こうと思い、何となく構想し描き始めたのはいいが、正直、全く歯が立たないことが分かった。
というのは光悦を書くにはどうしても本阿弥家を書かなければならない。なぜならば光悦の天才の秘密は研ぎ師としてのこの家の生業から考えなければならないからである。とするとそれは刀剣について何よりも知悉していないと書ける代物ではない。そしてそれをやり出すと違う次元のことが分かってきた。本阿弥家は刀鍛冶ではなく、鍛冶が打った後の刀を研ぎ、その後のメインテナンスを行い、そこから鑑定という分野に事業領域を広げていった家であるからだ。
 その上、この分野というのはそれこそ1000年の知見が詰まった世界で、言葉や概念が多岐にわたり、智識として一つのスタンダードがない世界なので信じられない言葉や概念に出くわすのである。特に専門書には信じられない日本語(「拭い」「肉置き」はいいとしても・・「とっつく」=「とっつき」というのは、平地に入るヒケと同じようなもので、白い筋状に現れます―というような説明が出てくる。)こうなるとまさに外国語で、それでもネットがあるのでそのあたりを頼りながら、読み進めることができるが多分、10年前ならそれこそ国会図書館に行って一日を費やさねば分からなかったかもしれない。
 それでも紙の上の知識なのである。運よくyou-tubeがあるのでいくらか確認できるが、それでも刀鍛冶の方はいろいろと手立てはあるが研ぎとなるといたって少ない。またその作業が微妙な作業なので映像でもわかりにくい。むかし、重力場を表す計算式でリーマン曲率を利用したそのやり方を理解する以上の手ごわさを感じている。
 それでもリーマン曲率は統一された言葉、計算式、概念がある、科学だからである。その解釈が万国共通だが、刀鍛冶や研ぎ師の世界では一人ひとり微妙な違いがあり、その意味するところ多分、工房、地域、集団など、その他、備前と山城の違いもあるのであろう。いわゆる流派の違いが厳然と残っている。
思い出したのだが剣術の世界では、昔は流派ごと考え方ややり方は違ったが、明治になってともかく日本剣道型というものが出来て統一ルールの下で剣道が行われるようになった、ようなものなのだ。ところが刀剣製作の世界ではまだ、流派のなごりが色濃く残っているのである。
 その上、鎌倉時代のその世界を書こうとしたらほとんど不可能な、当てずっぽうの世界になってしまいそうである。ただ、確かなことは間違いなく刀剣の研ぎの世界は技術もさることながら、その作業の本質は美術的なファクターによるところが大きいことは間違いない。形と仕上げにみる視覚性、それとそれぞれの部位の組み合わせの妙が一本の刀剣の秀逸性につながってくるからである。その延長線上に光悦の天才性があるとしたら何であろうか?
                                    泉利治
2020年3月23日

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