ブランドワークス

Column

東京デザインカレッジ

 学校に無縁な私が学校の仕事を四年もするとは思ってもみなかったが、いわゆるマーケティングプランナーと言われる輩はどんな業界でも、どんな商品でも手掛けなければならない宿命を持っている。したがって、全く場違いの分野の仕事を請け負うことの方が多いというのは仕方がないことである。
 たとえば女性の生理用品のブランド戦略のような仕事もあった。こうなると正直まったく分からない。したがって、それ等の商品の機能や市場の特質を知るためにネットや実際の商品を見たり、そのパッケージのスペックなどを机に並べて調べた。知らない人が見たら“こいつは変態に違いない”と思うこと間違いなしである。そのクライアント企業のブリーフィングを聞いた後にチームの若いアシスタントの女性が言ったことがイイ。
“分からないことがあったら、私に何でも聞いてくださいね”
確かに分からないことだらけであった。私は会社ではその女性に話を聞き、家で仕事をした際には家人に訊きながら猛勉強?おかげでその分野は妙に詳しくなったものである。
 マーケティングや、ブランディングの専門教育を受けていないのにこんな専門的な仕事ができたのは私がいわゆる先駆者であったからだ。つまり、新しい分野は新しいがゆえに専門家がいないから唯一のブランディングの専門家である私が担当することになっただけである。しかし、そんな私は唯一専門教育を受けたのはデザイナーとしての教育を表題の学校で受けただけである。
 
 私のクライアントは創立150年にもなろうとしている名門校であるが、ここの有効卒業生は21万人近くいる。この人たちの母校に対する想いはどうか分からないが、母校があるというだけでもうらやましい限りである。
 私の最後の学校である東京デザインカレッジは創立して5年で廃校になったので正規の卒業生は私たちだけでせいぜい100名にも満たないであろう。就学期間3年のグラフィックとインテリア・プロダクト、あと漫画部の学生だけである。建築は4~5年なので正規の卒業生はいないという話であった。その後、私が銀座を歩いていた時、廃校になって放り出された後輩が銀座で署名活動を行っていたので、そこの卒業生だと言って署名し、がんばれよと元気づけたのを覚えている。
 私が高校を卒業する頃、いわゆる各種学校が雨後のタケノコのように生まれてきた。その一つにデザインスクールがあったのだが、ありきたりの道ではないデザインという言葉に魅力を感じたわたしは取り立てて受験勉強もしなくともよいその学校に簡単なテストを受けて入学した。しかし、そんな学校でも学生たちはデザインや美術に関して一過言持った連中が多かった。授業の合間に会話している内容に私はとてもではないがついていけなかった。というのはその学校は日本のバウハウスをめざすという高邁な理想を持った学校であり、教授陣が当時の日本を引っ張っている先進的な人々であった。建築では吉田宏彦や星野晶一、グラフィックでは大智浩、永井一正、プロダクトでは五十嵐治也、漫画部では手塚治虫、近藤日出三、横山隆一などの理想に燃えた超一流教授陣を揃えていた。
 その学校の存在は当時でもそれなりにセンセ―ショナルなものだったらしく、マスコミによってかなり紹介された。ただ、その紹介のされ方が一様に「漫画大学」というような紹介のされ方で先進的なデザイン教育に対してこの学校を選んだ学生には不満が残るものであった。しかし、いま考えるとその先見性には感服せざるをえない。なぜならばいま世界に日本ありと言わせるものがその漫画であるからだ。
 2,3日前ロシアのスケーターのメドベージェフがセーラームーンの恰好をした姿を見せてこれが大好きで…というようなコメントを読むとあの国の今はマルクス・エンゲルスより、セーラームーンなのだとあらためて感じいった次第である。若者という人間の原点を担っている人たちが日本のアニメや漫画に夢中になるということを漫画大学を創設した人たちの予想していたのだろう。
 東京デザインカレッジは第二のバウハウス足らんとしたのだが現代の世界におけるアニメの影響力を考えるとまさにその通りになったのである。当時の創立者たちはみな鬼籍に入られ、そこでの第一期の卒業生の何人かも鬼籍に入られた。
現在、そんな学校はネットで検索しても出でこないような学校でそこの卒業生であることは何の役にも立たないが、唯一、あるとしたら世界の文化潮流の先駆けを作った学校の正式の卒業生であることぐらいであろう。―ネットで2,3記事が出る、漫画大学として。

東京デザインカレッジは経営難で廃校になったのだが、学校経営についていくらか詳しくなるとその経営が理想と両輪になって初めて名門校が出来るのである。先日、久しぶりというより30年ぶりかで母校のあった赤坂で飲む機会があった。地下鉄の赤坂見附駅から数分の所にその学校のビルがあった、貸し会議室が入っていたようだ。入口の上に「紀陽ビル」と書いてあったのでうろ覚えの記憶が甦ってきた。間違いなくここだなと思ったがそのあたりは50年前とは様変わりで人も店もその賑わいも隔世の感がある。
 その東京デザインカレッジは入学して二年後に新橋に引っ越した。新橋ではビルひとつを借り切ったぐらい大きくなったのはいいが、そこに経営の落とし穴があったのかもしれない。私たちはそのビルの屋上で最初で最後の卒業写真を撮った。
 その後、プロダクト部の主任教授であった五十嵐先生と赤坂に繰り出した。私は初めてその時、ちゃんとした店でお酒を飲んだ。ともかく社会に本格的に飛び出す始まりを予感させる気がしたものである。
 その時、学んだことで私はその後の50年を生き抜いたのであるが考えてみれば全く正統派の職業人生を送ったものである。わき目も振らずに。
                                 泉利治
2020年3月2日

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