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Column

遊行寺

 この寺の名前はだれもが一年に一度必ず聞くといってよい。そんなことからか何となく既視感があって、それこそ車で30分もかからないでいくことができるこの高名なお寺に数日前に初めて訪れた。したがって、そんなことからこの寺の名前はユウコウジではなくユギョウジであることがやっと反射的に出るようになった。正月の大学駅伝でも“この遊行寺坂は駅伝ランナーにとって難所の一つである”ということで正月にわれわれは必ず耳にする。遊行寺はその坂の途中にある。
 時宗の総本山であるこの寺を開いた人物は一遍上人である。一遍上人は南無阿弥陀仏を民に勧めて浄土往生への道を教えた僧であった。私は一遍と空也が混同しており、ヴィジュアルのインパクトから空也のイメージが強かったので全く意識に上に登ることはなかった。空也のイメージとは運慶の四男である康勝の空也上人像のことである。あの口から小さな6体の阿弥陀仏が出ている有名な彫刻のことである。
 この空也上人像、私は古今の彫刻作品の中で最高傑作と思っている。彫刻本体のリアル性も素晴らしいが、あの針金で小さな6体の阿弥陀仏を表現したアイデアが素晴らしい。要するに空也上人が生涯成してきたことを一個の彫刻で表しているからである。空也上人のことを知らなくとも“あの口から、小さな仏像が…”と言えば多くに人は知っているに違いない。
 一遍上人も同じ人生を歩んだようである。しかし、一遍上人は自身がアーティスト―素晴らしい歌人―でもあった。したがって、この宗教に打ち込んだ人は芸に生きた人が多かったようである。世阿弥、善阿弥、観阿弥・・・などたくさんいるがそれらは同朋衆と呼ばれ、将軍などのそばに仕え、芸事に携わっていた。ただ彼らはいわゆる余興をやっていたわけではなく、将軍や大名のそばに仕え為政者のライフスタイル全般に係る存在であった。考えてみればいかなる国でもそうなのだが人類の宝と言われる数多の芸術作品をわれわれが目にすることができるのは芸術を庇護した為政者が出現したからで、彼らが歴史にその名が残っているのもどちらかというと政治上のことではなく、彼らが支援した芸術によってである。たとえば足利義満の政治上の業績はとるに足らないものだが金閣寺を立てたことでかれが評価され、歴史に彼の名前が燦然と輝いているのである。
 
 私は今、やっとのことで念願の本阿弥光悦の小説的研究書に取り掛かり始めた。今回の遊行寺行きの発端はそこにある。光悦を生んだ本阿弥家はその名の通り、阿弥衆である、かれらは刀工としての優れた技で足利将軍に仕えた。とそこまで歴史書には書いてある。しかし、出典は室町時代に編纂された「尊卑文脈」であろうとおもわれる。始祖の妙本が亡くなったのは1353年である。室町時代の初期でその頃の将軍は足利尊氏である。そのあたりまで本阿弥十二家系譜には載っている。そして阿弥衆ならではの待遇がこうである。“足利尊氏ニ仕ヘテ刀剣の奉行タリ”とある。「尊卑文脈」がどのくらい学術的に価値を持つものか分からないが重要な手がかりであることは確かである。
 私がこのたび遊行寺の「真教と時衆」展を観に行った理由はその手がかりを探るためであった。この分野の研究の面白さは目的とした手がかりに出会えた時である。私は遊行寺の宝物館の片隅で「別時念仏番帳」という1306年に書かれたリストを仔細に見た、そしてその中に“本阿弥陀佛”という時衆の僧衆名の中からそれを発見した。
 この「別時念仏番帳」とは時衆の中で厳修される六時礼讃や日課称名の際に順番に交替で唱えるためのリストでそこに男女48名の氏名が記載されているものである。したがって、ここに記載されている名前はすべて阿弥衆なので〇阿弥というように記載されている。善阿弥陀佛という名と本阿弥陀佛という名前に一瞬震えが止まらない。調べると善阿弥は時代的にこれがあの善阿弥とは思えない。歴史に残る善阿弥は1386年~1482年に生きた人物なので1306年にはまだ生まれてはいない。ただ、庭師としての初代善阿弥であったとしてはその限りではない。ところが本阿弥の方は1306年に初代本阿弥は53歳なので、ここに記載されている人物がそうである可能性は十分にあり、ましてかれは足利尊氏のお抱えの刀工の一人としてその頃、見事な技を持つことができる年齢にまで言っている。そして、尊氏自身はどこに住んでいたかというと鎌倉にいたのである。この発見は学術的に価値を持つかもしれないが私にとっては小説の真っ当な筋立てになるのである。
 実はこの後が面白い、この宝物館はいわゆる公的なものでないので来場者に対するサービスなどは全くなっていない。私はこの文献について聞くために学芸員を探した。部屋の片隅に若い男性が座って監視していたのでかれにそれについて質問したが全く分からなかったので、また、見ていると監視員が女性に変わり、少しして若い修行僧のような人物が何か友人を伴って入って来て、いろいろと説明している。
 私は今度、その女性にその資料について質問したがその女性はそのような専門的な質問はあの人に訊いてくださいとその修行僧的な人を指さした。・・的と書いたのはその人物の恰好がジャージを着ており、修行僧らしさは坊主頭と横柄な物言いからそう思ったのである。ともかく、その修行僧は一人に人物につきっきりで偉そうに話している。学芸員的ではあるが公的な美術館や博物館の学芸員のような物言いではない。いくら待っても終わらないので私の友人が声をかけて別時念仏番帳の前に連れて来た。答えが要領を得ない、私もそもそもこれがどのようなものなのかわからないので、善阿弥と本阿弥である可能性の話をすると、修行僧?は本阿弥は室町時代以降の人であるし、光悦とは関係のない表記であるというような話で、私の思い込みは間違いであるというような事を高飛車に述べた。この人物にこれ以上話しても埒があきそうになかったので話はここでやめにした。彼は本阿弥家の起源まで知らなかったのである。私はこれが一般的な本阿弥家に対するスタンダードな見解であることを知って内心ほっとした。
                                   ©?泉利治
2019年11月11日

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