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Column

電子小説家

 本タイトルを今後の肩書にしよう。念願の本業?に戻って20日あまり、そうは言ってもこの20日間は何かと忙しい日々であった。忙しい3年間のプロジェクトに追われてリタイアした人間独特なライフスタイルどころではなく常に追いまくられた3年間であり、その失われた3年間を取り戻すために躍起になっていた20日間であり、その中で小説を書くというのは不可能だった。
したがって、自称、電子小説家の作品は今のところアマゾンのkindle 有料本で読めるものだけである。しかし、3年間、何も新作を出していないということはどうも居心地の悪いもので、急遽、本考の1テーマを集めたアンソロジー集「やぶにらみの日本画家論」を出版したが、あまりに焦点を絞り過ぎたせいか、数冊しか売れない状況である。売れているのはデビュー作?の「宗達はじまる」がロングセラーとして、月に2,3冊が3年間にわたり売れ続けているだけである。
3年間も何もまともな小説を出していないというのは売れっ子作家ならば出版社が黙ってはいない状況であろうが、そんな状況に陥っている作家は幸せな作家である。ただ、真面目な作家ならばその焦燥は半端なものではないのではないか。例の又吉直樹先生はこのたび新作「人間」を出したがタレント活動の合間にそれらを書くのは並大抵のことではないことは分かる。まあ、若い分そのあたりは私らとは違うであろうが?

予定の新作は本阿弥光悦に関した小説なのである。本テーマは3年間のプロジェクトの終わり近くになってやっと出てきたテーマであり、これに決めた理由はまず「宗達はじまる」と同じようなバックグラウンドがあると判断したからである。無名の作家の常として自身の名が無名なら、超有名な人物の小説を書くべきであるという確信に行き着いたからで「宗達はじまる」がロングセラーである理由はこの有名な謎の作家について知りたいと思う人は今後、常に生まれ続けることは間違いないからである。俵屋宗達の作品を見るとこの素晴らしい絵師はどんな人物なのかを知りたいと思う人は宗達の作品がこの世にある限り、今後の新たに出現することは間違いないことで、多分、永久に私の口座には少ないながらも毎月原稿料が振り込まれ続けることは間違いない。
ということから二匹目の泥鰌として俎上に上げたのが“本阿弥光悦“。この人物は宗達以上に有名であり続けた芸術家であろう。宗達は出現してから300年間の空白、つまり忘れられた期間があるが、一方、光悦はこれこそ時代を超えた芸術家としていつの時代も君臨し続けたといえるであろう。そのあまりの存在感ゆえにかそのような人物のあら捜しをする輩があらわれていろいろネガティブな捜索と創作をして貶めるようなことをやってのけられてしまうのである。そこまでいかなくともわたしにとって松本清張の「小説日本芸譚」そんな本であった。その罠にまんまと引っかかったのだが、その反省が今回挑戦しようとしている小説のテーマになっているのが何ともいえない気分である。
 
小説日本芸譚の中の「光悦」は読み物としては当時、新進作家松本清張ならではの意欲にあふれた作品である。この本は光悦を初めとした日本美術の要石のような存在である10名を集めた本でこの本を読む限り、素人目で見ると面白いだけで済む本であるが、一度でもそれらの芸術家の物語りを書いた人にとってはどんなに大変な作業なのかが分かるような本である。
というのはこの手の本はそれぞれの芸術家についてかなり知らないと書けない本であり、その時代の社会状況やその芸術家を取り巻く生活環境を知らなければならない。それ以上にその芸術家そのものの人間性や芸術観について、自分なりの考えを持たなければとてもじゃないが手に負えるものではない。それらの前提があり創作が可能になる。この本は多分何らかの雑誌に連載したものだろうが、毎月、その道の専門家の目にも触れるものなのでその自信は並大抵のものではない。
作家松本の驚異的な創作ペースに先輩作家たちはかれが何人もの助手を使い、資料を集めてもらい、要点を書きだしてもらったものをベースに自分が書きはじめるのだと言ったそうだが、松本は助手が一人だけで必要な書籍や資料を集めてもらうだけであると答えたそうである。ただ、松本清張の芥川賞受賞作「或る小倉日記伝」を読む限り、鴎外について一人で調べたと思われる基礎調査をベースに書き上げた作品は緻密な歴史的な検証と卓越した発想で当時の知られた先輩作家たちも舌を巻いたのではないかと思われたが、昨今の芥川賞作品とは次元の違いを感じてしまう。
私がこのたび光悦をテーマにした本を書こうとしたきっかけは松本清張の光悦像を鵜呑みにして光悦を書いた反省と光悦に対しての一種の申し訳なさがキッカケになっている。また、単純な理由として本当に本阿弥光悦とはこんな嫌な人間なのかということ(別に嫌な人間でもそれはそれで納得なのだが)を確認をしてみたいということである。

創作とは何事も能動的になることであるのだが、今までなら絶対に頭の片隅に残らないような事でも重要な意味を持つものである。たとえばこんなことである、私は数時間前、昨晩から気になっていた美術史家の河野元昭氏の本を探すためにネット検索をしていた。そうしたら、彼の講演のライブが出てきた。その内容は2015年に京都で行ったもののようで琳派400年にちなんだものであった。その講演は細見美術館が関与しているらしく館内には細見の館長も来ていたようであった。その時の話で琳派400年は光悦が鷹が峯に芸術家村をオープンした年が起点になっているということであった。つまり、1615年である。
その時、この年は公家諸法度が施行された年でもあったことを思い出し、この法律は江戸にある幕府がこれまで既得権益の権化である天皇や公家衆を取り締まる目的で作られたものであるという。これは徳川幕府の権益を強化すると同時にこれまで多くの権益で潤っていた、連中の力を削ぐものであった。
徳川家康は臆病なほど用心深い人であった。そんな彼が公家ではないが公家以上の力を持つ光悦に対して何らかの手を打たないといけないと考えたのではないか、つまり、光悦のような力を持つ人間を京都市中に置いているというのは百害あって一利なしである。いわゆる光悦ネットワークは徳川幕府にとって良いことはない。つまり、光悦のもとに京都中の権力者が集まるのである。茶の政治力は秀吉と利休の関係を見ればよく分かる。幕府はその時、いずれにしても本阿弥家にあまり力を持たせるのは良くないと考えたのだろう。
光悦放逐の記念すべき年が1615年なのであり、その時の意味が60年後に実行される。今度は本阿弥家の鷹が峰追放である。
                                   泉 利治
2019年10月28日

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