ブランドワークス

Column

世界のリーダーシップ

 大学の仕事をして気づいた一番大きなことは、どうも最近は企業が冴えないな?ということであった。これは新しい仕事を知ることによってその業界?の力に気づいたことでもある。すなわち大学である。私が現役で働いていた頃は企業が世の中のリーダーシップを握っていた。たとえば世に先駆けたものをつくり出していたのは常に企業であった。ともかく、日本という国家は日本の企業がそんなことをやり続けたことによって今の存在があった。
 少なからずそんなことを実感できる企業に身を置いていた私は特にそんな錯覚に陥ったのではないか。当時、仮に和菓子屋で仕事をしていたとしたらそんなことは思わなかったかもしれない。ともかく、肩で風を切って歩いていた時代であった。
 そんな錯覚を持ったままHONDAを辞めて私はマーケテイングコンサルタントの世界に身を投じたのだがどういうわけかその会社もHONDA並みの勢いがある会社であった。運がいいのか悪かったのかここでも肩で風を切る体験をした。何といっても、週に3回もテレビ取材に来るような会社であったので時代、それも世界の最先端の仕事をしていたのである。街を歩くとPAOSで開発したシンボルマークを見ない時はなかった。したがって、いくつかの大学はCIという分野の研究をするようになった。要するに大学は企業の最先端事例を研究して、その中から理論化を試みる存在なのである。という認識が私の中で出来上がった。いわゆる大学とは後付け理屈を考えて世の中に広める存在であった。
 私の最先端企業の遍歴は次まで続いた。次の転職先がブランドの専門会社であるInterbrandであった。この会社に入社して6年目でここの会社の仕事が日本で認められた。
すでに欧米では認められていたブランド価値評価がやっと経済界からも注目されたのである。このあたりから私は多くの経済紙などに様々な記事を書いた。勿論、ほとんどが一流の経済紙であった。新しいクライアントにはその雑誌を提供するとすぐに仕事が決まり、そんなことが高額なプライシングの裏付けにもなった。
 しかし、そのあと独立したがブランディングの仕事は昔に比べると割りのいい仕事ではなくなった。私は会社をたたんで悠々自適に暮らそうと思ったところで大学の仕事が来た。新しい業界?の仕事である。考えてみれば私の人生なのかもしれないが今ここがかつてのHONDAのような業界なのであった。私は4度目の最先端の仕事に身を投じることになった。2度あることは3度あるというが、3度あることは4度あったのだ。
 
ここでやっと現在形で語れるが、大学が馬鹿に出来ないと思ったのはこんなことがキッカケである。ブランドが経済界にも注目を浴びるようになって、ブランドに関する研究書や専門書がぼちぼち店頭に並ぶようになった。私はあまりそれらの本には興味がなかった、自分たちが世界の先端を行っていると思っていたからである。それを読んだ社内の人たちの書評もそれらの本は分かりにくく、実務には役に立たない本であり、私の考えていた理論?の方が説得力があるという話であった。だが、そうこうしているうちにアーカー教授の本に一応、目を通さなくてはいけないことになった。クライアントの担当者がほとんど目を通しているからであった。
カリフォルニア大学バークレー校のディビット・アーカー教授はブランドの専門家でもない、いわゆる経営学者で一般的な経営戦略の著作はあるがその道ではたとえばマイケルポーターやフィリップ・コトラー、ヘンリー・ミンツバーグなどに比べると存在感が薄い学者という印象であった。しかし、アーカー教授はブランディングという分野で最高の権威者になったわけであるが、その著「ブランドエクィティ戦略」は現在ではブランディングの権威ある教科書になっている。
 私がその価値に気づいたのは初版本が出てから7,8年経っていたと思う。かれの知識が
ブランドビジネスのインフラになりつつあり、考え方や理論を活用するとより説得性が出てきたのである。今考えてみるとかれは学者としてのセオリーに則ったステップで基本原理を極めたのである。しかし、当時の私はそこに気づかなかった。その一つに学者の考えたビジネスセオリーに対する一種の不信と大学という中で編み出されたものよりビジネスの現場で生み出されたものの方が正しいに決まっているという思い込みがあった。
 アーカー教授はブランドを原子レベルまで分解した、4つのブランドエクィティがそれである。それに比べるとわたしの作った理論は諺程度のものであったかもしれない。かれはブランド原理書を書き、私は応用科学書を書いたのだった。今となって私は双方を上手く使って戦略等を組み立てている。両方とも実際のビジネスの世界では有用であるからだ。
 
 ビジネスコンサルタントと学者が発見する仮説はそこまでは同じであるがその後が違うだけであると思っている。学者はその仮説を検証するために実験をして、証明されたものだけを使う。しかし、ビジネスコンサルタントはその仮説を実際のビジネスですぐに使い、うまくいけばその仮説が正しいし、失敗すればその仮説は間違っているというまでの話で、その失敗を負担するのはクライアント企業とコンサルタント自身ということになる。
 正義感の強い学者なら、そんな証明もされていない仮説を使った提案で仕事をするなど無責任だ!と憤るかもしれないが、クライアントにしてみればビジネスで先を行くということはそんなモルモット精神がないと負けてしまうのだと割り切っているからだ。
 私の方法は学問的に言うと経験論から導かれたものである。したがって論理学でいう帰納法になる。しかし、スピードを求める世の中はそんな長いこと待てないということなのだろう。広範な情報を拾い集めて、膨大な経験から一瞬にして仮説をつくり上げて、一夜にしてセオリーをつくり上げる。
 そのプロセス自体がセオリーに則っているので誰もが納得せざるを得ず、それを採用するのは企業の意志決定者である。かれらも一瞬にして自分の経験から判断する。いわゆる、リスクとサクセスを天秤にかけているのだろう。笑い話だがあるグローバル企業のトップは誰も判断できないのでかれは私たちに支払ったコンサルタント料の多寡でわれわれの提案を採用した。これだけ払ったのだからこのコンサルの提案を採用しないと損だな・・と?
いわゆる今という時代は過程がなく、原因と結果しかない時代の印象がある。いや、待てよ。そんな時代の陥穽に落ちるような人は本考など読まないだろう?課程がブラックボックスになっている。その恐ろしさ気づいているからだ。
                                    泉利治
2019年10月7日

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