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Column

恵まれた人、努力の人、普通の人

 オリンピックを来年に控え、スポーツが面白い。何が面白いのかというとこれまで注目された事がない種目が取り上げられて、その種目の面白さに気づかされることが面白いのである。その典型がバスケットボールである。八村塁という日本人の活躍がその面白さに火をつけたと言える。
 バスケットボールという球技は日本ではいたってマイナーのスポーツであった。理由は簡単である世界で戦えないからである。問題はなぜ世界で戦えないかである。その理由も簡単である。日本人は先天的に背が低いからだ。その上、運動能力的にも劣るところがあったのかもしれない。そのどうしようもないハンディキャップをDNAが克服した。と言えば先進的な理由だが、こんな言い方は科学的かどうかわからないが先天的に優れている黒人男性と日本人女性の結婚によってである。いわゆる交配によってまず、発端が生まれたのである。交配という理由より、出会いという理由の方が八村選手には当を得ているかもしれない。その後、人間の能力が飛躍的に伸びる時期にバスケットボールが好きな高校教師との出会いがあって、“君はNBAで活躍できる!”と励ましたようである。その結果、恵まれた人が、努力する人になり、花開いた人になったのだ。
 恵まれた人といえば八村選手のようなサイズの人は日本人の中からは生まれる可能性がほとんどないがアメリカにはごろごろいるに違いない。だって70年以上生きた私の人生で2メートルを超えた人となんて出会ったことはなかった。海外に出かけたのは差し引いてである。バスケットボールの場合その身長の高さは恵まれたか否かのわかりやすい判断基準になる。
 問題は努力の人になるかどうかである。ここで言う努力とはいわゆる最大の見返りがある時期に努力するか否かの問題なのである。つまり、伸び盛りに努力をしないと世界はめざせないと云うことである。ここは多分に才能以上の運があるかもしれない。ここで言う努力とはその偶然に運よく努力した人の事を言っている。こんなこと言うと不遜に聴こえるがアメリカの黒人選手の中には貧しいので子供のころからバスケットボールしか、やることがなかったというような人が多いのではないか、しかし、よく考えればその時代、バスケットボールしか楽しみがなく、運よく夢中になれたと言う人はもう一つの恵まれた人と言えるかもしれない。
 どんな人でもいわゆる、最大の見返りがある時期があり、その時の努力で大方の人生が決まると思って差し支えない。そのゴールデンエイジは全ての人間に公平に与えられている。しかし、それをどう活かすかはその人とその人に与えられた環境で決まる。貧しい国、戦時下にある国の子どもたちはそのような機会を持っていても残念ながら環境がそれを許さない。また、環境が許しても子ども自身が望ましくない選択をする場合もある。ただ間違いないことはその段階で賢明な判断をするためには彼を導く、賢く、情熱的な大人が必要なことだろう。八村選手の高校の教師のような人である。モーツアルトの場合は父親のレオポルドがその役目を買った。アインシュタインの場合は彼の空想力を自由にはばたかせる家庭が提供されていたようである。
 この件について、今でも記憶に残る話がある。私の高校時代、英語の教師でいつも面白くない授業をするさえない教師がいた。その教師は自分が教えている生徒がどのようなレベルの生徒かを知っており、それにやり場のない諦念を持っていた。いわゆる私のいた高校は今でいう著名な進学校ではなく、名前は知られてはいたが平均的な生徒がいる高校であった。今から考えると、彼はこんな生徒しか教えられない自分の教師としての境遇に悲観していた気がしないではない、ある日、静粛に授業を受けない生徒を前に呟くように“君たちが今勉強したことは、一生涯忘れないものになるだろうし、人生を決めるものなのだ・・・”その言葉は前向きな教師の口から出たならば、大きな指針になったかもしれない。しかしその冴えない英語教師の口から出た時に感じたのは、今のみじめな人生は若いころ勉強しなかったからなのだという後悔の念にしか私には聞こえなかったのである。
 彼は上智大学を出た教師だったので英語を教えていたのだろうが、彼が出た頃の上智大学のステータスは現在とは比べ物にならないほど低かったので、そんなところからも高校生の私にはさえない英語教師の心象風景のように思えたのだ。しかし、それは真実である。あの時代も、今も何を身につけたかでその後の人生は決まったことは間違いなかった。要はそれを人生の後悔として語るか、発達心理学の視点で語るかの違いである。私は残念ながら八村選手が出会った高校教師のような人には出会わなかった。
 
 この歳になって感じるのは今の時代は無限の選択肢があり、だれもが自分にふさわしい能力を伸ばし、納得のいく人生が送ることができる時代になった気がしないではない。そして、どんな人にもその人ならではの才能がある。ただ、その才能を生かすも殺すも自分次第であるということだ。気づくのも自分、伸ばすのも自分、殺すのも自分なのだ。ともかく日本をはじめとした社会レベルの国はそこが国家の未来や国力を決めることに気づき始めた。今後、様々な試みが検討され、提供されるのではないか。

最後に何でこんなテーマを書くことになったかというと68歳で始めたチェロがキッカケである。簡単なフレーズを弾きこなすのに2か月くらいかかるのである。多分、恵まれた時期に始めた生徒は2日でマスターするだろう、それも正しい音程で?私はとんでもない時期、60年遅れで始めたのである。できるわけないよね・・・?と思いながら、普通の人が、努力の人となっているのである。
                                  泉利治
2019年9月9日
 

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