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Column

スパイ大作戦

 ここ何回かアマゾンプライムで[M: I」シリーズ見ているのだが、いわゆる昭和世代のわれわれにとってそれは「スパイ大作戦」シリーズの一つであるということになる。この原題が「MISSION IMPOSSIBLE」、当時の記憶としても「スパイ大作戦」はどう見てもいただけないタイトルである。今の時代なら間違いなく「スパイ大作戦」というようなタイトルのコメディ映画と思われてしまうだろう。日本人の英語力も少しは向上したからだ?というより英語に対する感覚が柔軟になったからだ。
このテレビドラマ1967年に放映が始まったのだが、最初から見ていたわけではない気がしている。観始めたのは少したってからだがその頃はまだ、カラーの印象はない?しかし記憶は定かではない。1967年というと東京オリンピックが終わって3年なので半世紀前の話で、たしかに最初見た時のインパクトは強烈であった。こんな凄いドラマを初めて見た!
であり、その証拠に半世紀たったイマでも魅力的な映画になりうるからだ。
 
私の年代になるとその年と自分の年齢を思い浮かべその時の状態を想像するに当時、どうも1時間のテレビドラマシリーズに少々、食傷気味になっていたきらいがあった。後で考えると私も21歳になっていた。いくらアメリカのドラマといえど子供だましの1時間ドラマにほだされる年齢ではない。
1時間テレビドラマの嚆矢は「ローハイド」というカーボーイドラマで、それが当たると「ララミー牧場」「ボナンザ」「ブロンコ」が立て続けに始まり、中学校では自分がどのお気に入り派に属するかで新しい友達関係ができた気がする。今はほとんど見かけないがあの頃は西部劇の全盛期だったので、テレビでも映画でも西部劇がおお流行りであった。が、そういう中でも現代劇はワーナーブラザーズでは作っていた。「サンセット77」や「サーフサイド6」「ルート66」などであるが、みな数字が付くのは偶然だろうが?これらの番組は現代のアメリカドラマである。しかし、基本的に現代のアメリカだが日本人のわれわれには西部劇と同じ非日常的な世界であった。
 というのは「ルート66」を見た同世代の友人と東北にドライブ旅行を試みた時、友人が、自分がルート66で見たようなドライブ旅行ができるとは信じられない!と言ったことがまだ耳に残っているからである。当時、アメリカのライフスタイルはわれわれ世代の憧れだったのである。間違いないことは現代のアメリカテレビドラマは日本の未来社会でもあったということである。
 たとえばあの当時、アメリカのホームドラマも結構放映していた。この多くは30分ドラマが多かった。「パパは何でも知っている」「うちのママは世界一」「ビーバーちゃん」変わり種では「ルーシーショウ」「奥様は魔女」「名犬ラッシー」・・・
「パパは何でも知っている」と「うちのママは世界一」かなり道徳的なドラマのような気がしている。健全な家族関係の在り方や基本のようなものを教えられた。しかし、それが日本人の家庭で役に立ったかどうかは分からない。このような立派な家庭がアメリカにはあるのだということに驚いたが、それ以上に驚いたのはアメリカの家庭の設えである。あまり気にしてはいなかったが“背より高い冷蔵庫があるなんて・・・?”
そんな女性の話を聞いてあらためてそうだなと思った。その頃の我が家の冷蔵庫は木製の氷を入れる小さな冷蔵庫であった。それでも裏のおばさんが“この刺身お父さんが帰ってくるまで冷蔵庫に入れて置いてもらえますか?”と飛び込んで来たような時代であった。
 また、自動車のガレージが背伸びをして上の取手を下すようなガレージで日本の戸建て住宅の前面の横幅くらいあった気がしている。そこにシボレーやクライスラーがデンと構えていた。今の我が家のガレージの2.5倍くらいあった。まあ、あの頃のアメ車は大きかったから仕方がないが。当時、アメリカ人の普通の家庭生活がこんなものなんだと思った。たしかにアメリカンライフスタイルは万人の憧れだったかもしれない。
 多くの日本人はそんなライフスタイルをどう見ていたか分からないが自分たちの生活の目標としてとらえていたというより、1つの典型ととらえていたと思われる。ただ、その頃の私の生活環境がその程度であっただけでそれに近い生活レベルの日本人がいたような気も何とはなくしていた。
 その頃、私は目黒に住んでいた。店舗付きの木造の戸建ての家で平均的な生活者レベルのそれであった。ただ、やはりそこは目黒で周りにはそこそこの家が多かったようである。
私は目黒、世田谷が高級住宅地であるという実感を持ったことはないが、今考えるとそれ以前、いわゆる戦前は高級住宅地であったのだろうと思うようになった。というのは冷蔵庫を借りに来たおばさんたちの家はどのような家かというと大きな屋敷の一部屋一部屋にひと家族が住んでいた。いわゆるアパート化した邸宅だったからだ。いわゆる下宿のようなアパートなのである。
 当時、アパートなどという概念がまだ確立していなかったので、戦後、広い家の一部屋一部屋を賃貸住宅にしたのである。そんな推測が成り立つのが当時の公立小学校のクラスメートたちである。当時のクラスには大金持ちから、貧乏人までの子どもが一つのクラスにいたものである。たとえば現在の公立の小学校のクラスの子どもたちの生活レベルは当時の目黒の小学校より均一なことは間違いない。
 あらためてやはりそうか、と思ったのは何回か前の本考「73歳の同窓会」の、ある女性の話になり、門構えの立派な屋敷に住んでいた理由がわかったからだ。話の流れから“あいつの家のお父さんは三菱重工に勤めていたからな・・・!”財閥系のこの会社の役職者なら目黒に豪邸は持てそうである。そんな家の娘が小学校の隣の席に座っていた時代なのだ。彼女がどういう目で「ビーバーちゃん」を見ていたのか知りたいものである。
                                文責:泉利治
2019年8月5日

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