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Column

戦友の死

長生きをする弊害の一つに多くの親しい人との死と遭遇する機会が多いことがある。
いくつか体験する中でも心からの人の死は巨大な大波に襲われたような感慨を覚えるものである。戦友である古澤浩一氏は2019年7月10日に58歳で亡くなった。本当に若すぎる死である。かつてない大波である。
戦友と言うと何と大げさなと思うかもしれない。しかし文字通りの戦友である、というのはまだその戦争は続いているからだ。2016年の今頃、古澤浩一氏から母校青山学院のブランド戦略プロジェクトを起こすことができないかという誘いを受けた。私はいわゆる一線から退いて悠々自適の真っ最中であった。したがって、仕事関係の人と会う機会もめっきり少なくなり。定年後に予定していた様々なこと、たとえば我が家のルーツ探し、興味のある分野の研究。それと最後の音楽修業であるチェロの練習に毎日を費やしていた。

 しかし、そんな中でも古澤氏の申し出は面白そうに思えた。企業ではなく学校というテーマも何とはなく、これまでとは違う異質な研究のような特別感があった。横浜のローズホテルが良く落ち合う場所であった。彼がこの話に本気であることは何度も横浜まで足を運んでくれたからであった。ルーチンの仕事の合間に足を運んでくれる彼と別れる時、何かあれば鎌倉まで行きますというのが常であったが、横浜で、と私が押しとどめたのである。常に相手を気遣い、そのために自分の身を削る人であった。
 そんな何回かのミーティングを経て、私が提案書を書き上げて青山学院の経営トップにプレゼンテーションすることになった。その機会は一月もしないで訪れた。その提案はあっけなく採用され半月後に正式なプロジェクトとしてスタートすることになった。就任して学院の状況が分かり始めた経営トップにとって、経営的な視点からのその提案は無理なく受け入れられたのかもしれない。実際はそれが苦難の始まりであった。組織と言えど、企業と学校は全く違った。私立学校なので本来、原理的には企業と同じであるがそれを運営している人の意識が企業とは全く異なっていた。これまでと同じプロセスを踏んでプロジェクトを進めたが、提案の基礎にある調査研究の基本情報は古澤氏がすべて提供してくれたものである。150年になろうとする、キリスト教が基本にある学校はあまりにもこれまでの企業とは異なっていた。
 
古澤氏は青山学院初等部から進級した人で、いわゆる人間を形づくる重要な期間を青山学院で教育を受けた人物である。したがって、彼は青山学院の教育とは何なのかの生きた見本と言えるだろう。青山学院はサーバントリーダーをつくる教育をモットーとして、学校を運営しているがその生きた見本が古澤浩一なのだとつくづく思うようになった。そこから類推するとその教育ポリシーは間違いない気がしないではない。
 彼は声高に自分の主張をする人ではない。他人の話をじっくり聞いて、彼ならではの心のこもった考えで応えてくれる人であった。他人を誹謗中傷するようなことはなく、常に思慮深い表情で言葉を選びながら、控えめな自分の意見を言う。おかしな言い方だがかれほどの高品質な人間は私の周りにはいない。そう考えると青山学院の教育も捨てたものではないと思わざるを得ない。
 彼の人となりを語る言葉としてサーバントリーダーがふさわしいといったが、この少しし変な言葉とはその意味を通りの言葉なのである。“召使のリーダー“これを理解するにはキリストをイメージすると理解しやすい。キリストは病める人に尽くした人であり、病める人の召使として、心に光を灯し、奇蹟を起こして本当の治癒をした人である。その結果として人々は彼をリーダーとして尊敬し、付き従ったのである。
 たしかに人々の上に立つ真のリーダーとはこのようなことをしているのだ。したがってそう考えるとサーバントリーダーというおかしな言葉の意味も納得できる。わたしは運よくその言葉を理解するための生きた見本のような人物と仕事をしていたのである。私のいくらか長い人生でこのように絵に描いたような見事な人生を送った人はいない。
 
 彼と私の付き合いは30年位になると思う。彼とはインターブランドで出会った。かれに良く冗談めかして言ったことは君は素晴らし学歴を持っているが職歴はさえないねと言ったことだった。というのは私の職業観から来るものだろうが、これだけいい大学を出たならばだれもが知っているような一流企業に勤めるのが当然の流れなのである。ところが最初に勤めた会社はTOLAというような、何かわけのわからない教育機関のような、旅行代理店のような会社で、仕事がないと駅前でチラシを古澤氏自らから配るような会社であった。そのうちその会社は潰れたようであった。彼の履歴書を見て私年代の面接者が目を引くようなことは何もなかった。
 そんな彼だから当時のインターブランドの営業トップのハッタリめいた人物とうまくいくはずがなかった。その人の下で彼は苦労をしていた。そんな時、彼が私のプロジェクトのアカウントに着くことになった。私は彼とはどういうわけか馬があった。二人で新しプロジェクトを開拓し、彼の売上に寄与したのだろう。彼との仕事は楽しかった。裏表がなく、正直なところは本当に育ちの良さを感じさせたものである。というのはその頃のインターブランドはどう見てもヤクザな会社と思っていたからである。しかし考えて見れば現在はそのような会社が世界を動かす会社になり、私が一流企業と言っていたような会社は潰れていくのであった。彼の職歴はそんな時代を予想していたのかもしれない。
 その後、彼はインターブランドをやめて、同じような外資系のデザイン会社に移り起業することになった。しかし彼はやめた後でも、年に一度、新年会の機会をつくってくれて、私との関係を繋いでくれたのである。青山学院のプロジェクトは彼の畢生のプロジェクトなのではないか。今思うとその期待にどれだけこたえられただろうか分からない。
 6月24日に私の愚痴めいたラインにこう書き送ってきた“確かに泉さんがやってくださったことが青学を大きく変え、変わらないのは何故なのかも特に常務以上に突きつけていると思います。”
 最後の入院であるひと月は壮絶な日々の連続であった。毎日、40度を超える高熱と戦ったのである。そう考えると今は壮絶な日々から逃れたことにはなる。でも、彼は最後まで生きることに執着した。まだまだ、やりたいことがあったからだ。誰かのために、そして自分のために。
                               文責:泉 利治
2019年7月22日

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