ブランドワークス

Column

カーデザイン

私は自動車のデザイナーを目指して人生が始まった人物の第一世代なのではないかと時々思う。
しかしそのキッカケはかなりそんなに真っ当な話ではない。真っ当というのは男の子なら何となく憧れるような仕事だからである。私の場合は消去法としてそこに落ち着いたということなのではないかと思う。
 デザイナーの人生を決めるのは学生時代につくった作品だけである。それ等をもって会社周りをするからであった。私が高校を卒業したころ雨後のタケノコのようにデザインスクールが開校し始めた。昨日問題になった福祉・介護の専門学校のようにである。しかし考えてみると何とはなく夢のある時代のような気がしないではない。とはいっても当時、本気でデザイナーになれると思っていた人はどのくらいいたのだろうか?
 私もその一人であった。私は取り立てて自動車に興味があるわけではなかった。ただ、偶然、銀座の洋書屋でイタリアのカロッツェリアの専門誌を買い、その中の新進デザイナージョルジェット・ジウジアーロのレンダリングとそこから生まれた作品群を見たきっかけで当時、自由課題で自動車やスクーターの作品を他の学生より、多く、熱心作ったことで運よく自動車会社に就職できただけである。
 当時の出来立てのデザイン学校に自動車開発の教育メソッドなどあるわけはない。ただ、レンダリングの教師が唯一カリフォルニアのアートセンタースクールの出身者という、寂しい内容であった。私は英語とスケッチで構成されたその本を貪るように読んだ。それは見ごたえのある本で最先端の自動車開発の専門書であったと思う。アイデアのためのサムネールから最終予想図ともいえるレンダリングまで、プロセスを追って説明していた。多分、私は当時日本の自動車業界で最も優れた最先端の教科書を手にしていたのではないか。
つまり、初体験として優れたイタリアのデザイナーの作品群と接したことが原体験となったことである。したがって、今でも自動車のデザインは興味の対象であるし、その良し悪しについては正直に言うとデザイナーの創造プロセスを遡って判断できるし、ボディ形状の詳細についてもどこまでデザイナーが関与したか、モデラ―が苦心したかなどがたちどころに分かる。私の時代はボディ線図も人が描いた時代なのだからである。

現在、どの会社のデザインが優れているか?私が思うのはMAZDAではないかと思う。なぜすごいのかというとデザインや製品が自社の生命線であるという意識を隅々に感じるからである。このMAZDAはトヨタのような規模もない、メルセデスのようなブランド力もない、フェラーリのような尖がったところもない。そのようなことが分かった中でデザインという切り札に目を付けて磨いてきたからである。これは経営戦略としても凄い決断だと思う。その決断の背景にはMAZDAの数々の失敗がある、大企業も失敗があるがこの会社ほど失敗と再生を繰り返した会社を私は知らない。失敗と再生の繰り返しの間に成功は一回しかなかったと思っている。それはル・マンで優勝をしたことぐらいである。もしかするとロータリーエンジンを実現したというのも入るかもしれないが?そこは何とも言えない。ルマンだけは間違いなく成功である。考えてみればその一回の成功だけを信じてこの会社は再生したのではないかと思うくらい細い糸に導かれている。
MAZDAはHONDAと比べると面白い、私はこの二社は生い立ちがよく似ていると思う。
たとえばオートバイから始まり、自動車に行き着いたという点や、ユニークな事業展開、技術志向、レースへのあくなき情熱など基本的にこの2社はベンチャー志向の会社なのではないか、と思うからである。
本考のテーマも実はそこなのである。きっかけはホンダのデザインの質が落ちてきているということからなのだ。というのはホンダのデザインの質は生まれた時から高度であったという気がしているからである。たとえば今、ホンダの最初の量産自動車であるHONDA S800の映像が見ることができる。ディアゴスティーニのCFでその模型を組み立てることができるということなのであるが、その魅力的なスポーツカーは何と半世紀前のものなのである。ところが今みてもニューモデルといってもいいようなデザインで明らかに売れそうだなと思わせる魅力を持っている。ホンダはその次にN360を上市し、自動車メーカーとしての存在を確立するのだが、それから少なからず、私がホンダにいたあたりの1984年位まではデザインにおいて、優れていたと言えるであろう。
たとえばホンダZの斬新さは今見ても信じられない、単なるグッドデザインではなく、いかにも自動車メーカーが作り上げたデザインであり、それは欧米のいかなる自動車メーカーにも専門のデザイナーにも作りえないものであった。その後、CIVIC,ACCORDと続く新モデルの自動車のデザインも見事である。あの頃のホンダのデザインは世界に並び立つといえるのではないか。
ホンダのデザインが低下し出した要因は世界共通モデルを意識し始めてからであり、そんなことからどんな市場からでも受け入れられる八方美人型のデザインの車が企業戦略として求められるようになったからではないかと思っている。
ホンダの企業文化はプロダクトアウトである。己が信じる道を突き進むのである。そしてそれを確認するために市場調査をして調整する、“微調整型プロダクトアウト“なのであるがそれがすべてを市場調査に委ねた、それも世界の全ての市場である。八方美人どころか全方位美人型のデザインが今なのである。
したがって、いいとも悪いとも何とも言えないというような自動車ばかりが生み出されてくる結果になる。たとえばデザイナーの直感やアイデアが活かされた感じがしないのである。あと発想が単純すぎる、たとえば最近パッとしないFIT。ただ室内が広ければいいと思っている節がある。それだけで安心して作り続けている。制限ぎりぎりのサイズに造った結果なのだろうがデザインの可能性を自分で狭めている。だから、AQUAのようなプロポーションの車がなぜ売れるのかが分からないのであろう。
私に言わせればあれは軽のNシリーズの呪縛の何物でもない気がしないではない。あの発想を普通車にもってきた結果あんなふうなFITになってしまったのである。デザインなんかはどうでもいい、調査の結論に合っていればそれでいいというのが今のHONDAなのではないか?MAZDAは違う。時代に、世界に自動車メーカーとして問う姿勢がある。
                                 文責:泉利治
2019年6月24日

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