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Column

ある研究者の死

今週もいろいろなニュースはあったが一番考えさせられたのは日本思想史の学者西村玲博士の自殺の記事である。博士は今から3年前の2016年2月2日に自殺した。何がそこまで博士を追い込んだか分からないが一つは真摯な研究者を支援する体制の弱みがあったことは間違いない。どのような分野であれ純粋に研究に打ち込む真摯な研究者がその価値を認められながらその研究を続けていくための資金はおろか、生活にも困るような状況に対して何もできないという現実は富裕国にはあってはならないことである。現在のところ、このような頭脳を救うのはそのような先端の研究に対して無条件に手を差し伸べる、アメリカの機関や大学だけであろう。現に博士もプリンストン大学で3年間研究をしており、その間の研究生活は生涯で一番の幸せな期間だったのではなかろうか。
 それが切れて日本に帰ると悲惨な状況が待っていたようである。彼女はその突破口として結婚という道を選択したようである?これは私の単なる推測であるが。しかし、その道の先に未来はなかった。彼女はその結婚に終止符を打つべく離婚申請を役所に出した当日に自殺したからである。
 気になった記事は20余りの大学に研究職として勤めたいという依願書を出したが受け入れられなかったことである。読まれた形跡もない論文が送り返されたとある。いわゆる、就活をしたがどこからも声が掛からなかったという事である。このあたりは経済の原理で需要がなかったのだろうし、その研究の市場価値がなかったからなのだろう。しかし、その研究が役に立つか否かは分からないから研究というのだろう。この問題は理系の話に置き換えると基礎研究と応用研究における基礎研究にあたる部分のことさしているのかもしれない。基礎研究とは実利的価値が見えない研究なのだ。まして、江戸期の宗教家の思想などはそれがどのように実利につながるか分からないことになるからだ。
 一昨日、世界で初めてブラックホールの撮影に成功したというニュースが大々的に取り上げられた。世界の天体望遠鏡を繋いで地球レベルのレンズに仕立てあげ信じられない距離の信じられない現象を撮影したのだがそれがいかほどの価値があるか分からない。概念として考えると江戸期の浄土律宗の思想家普寂の思想となんとなく共通性があるようだ。ただ、情報価値からするとその差は地球からそのブラックホールまでの距離くらいの差があるかもしれない。
 彼女の書いた論文を何枚か読むと彼女の信じがたい見識が分かる。こんな頭脳が失われることは本当に惜しいと思った。しかしこのような逸材がゴロゴロいるのだろう。どうしたらよいかを考えたのだがそのような才能を価値と結びつける機関があるとよかったかもしれない。たとえば彼女が20余りの大学に就活をしている時、彼女をプロデュースする機関もしくは組織体のようなところがたとえば人脈など様々な手を使い研究機関などに斡旋するのである。また、彼女の人生目標などを聞いてそこまでの道筋を単線的に考えずに複合的に考え、最終ゴールを目指す遠回りだが生活と両立できる方法なども共に考えながら妥協点を探し当てて、進む方法などのアドバイス機関である。アインシュタインだって研究をするために大学に行かずに特許庁に就職し、その中で特殊相対性理論やブラウン運動を解明したのである。アインシュタインが単線志向の学者だったら彼女と同じ人生だったような気がしないではない。
 したがって、研究のための大学か?結婚かという二者択一の発想しか出来なかったことが残念でならない。彼女の博士号を審査した教授にそのあたりの方法を期待するのは無理だったのだろうか?と考えてしまう。いずれにしても研究職というものに対するリスクは大きい。基本的に研究にはお金がかかるからだ。
 私はこの論考を書くにあたり彼女の研究対象であった徳門普寂の彼女が書いたものを読んでみた―その生涯(1707~1781)―というものである。たしかに彼女の探求心は普寂に通じるところがある。また、普寂の生きた時代は決して豊かな時代ではなく仏教の求道者としての普寂の生き方は彼女に通じるところがあった。しかし、天寿を全うしているのである。彼も一種の研究者であったというところが面白いのだが、日々の食事にも事欠く中で何とか食いつないで研究し続けるのである。そして、目的の寺に潜り込んで研究をし続けるのである。当時の仏教界にはこのような坊主、修行者を受け入れる文化があったのだろう。三食を与え、雨風を凌ぐところを与え、寺にある様々な知的資産?仏典等を研究することができたようである。そう考えると仏教の研究者にとって300年前の封建時代の方が何とも豊かな時代のような気がしないではない。
 西村玲さんもそんなことを感じていたのではなかろうか、しかし、仏教思想史を研究するのにどれほどの資金を要するのか分からないが、普寂の頃とは明らかに違うことは分かる。しかし、その差が命をかけるものであるかどうかは私の想像の域を超える。ただ、その研究に命をかけた当時の仏者と同じ世界に生きていたことは間違いないが、これ以上は分からない。
 
これまでは研究者としての形而上学的な考察を試み、その見解にこだわった試論であった。しかし形而下学テキな話として結婚相手の医師の病気とその家族が世界的に著名な学者である西村氏との結婚を成就させるために彼という人間を真っ当な精神科医に見せるために虚偽で塗り固めたというような記事が散見された。その文脈はひどいものでまさに振り込め詐欺ならぬ集団で行った結婚詐欺のようなものであった。そのような背景の中では形而上学の世界で生きてきた彼女と彼女の家族はひとたまりもないだろう。いわゆる事故に巻き込まれたとしか言えない。したがって、そのようなことからの死であったならばまさに事故である。不謹慎だが反ってそちらの方が何となく心が休まるから不思議である。心から彼女の冥福を祈りたい
                                 文責:泉利治
2019年5月13日

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