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リベラルアーツ

リベラルアーツという言葉は西洋史、とくに古典をいくらか齧ったことがある人なら比較的身近な言葉として記憶していると思われる。多分、私はアーノルド・トインビーやバートランド・ラッセルなどの本を読んだころに出会った言葉なのではないか。当時、というと4,50年前こんな言葉の意味を調べることは容易ではなかった。私が50年前この言葉をどのようにして知った手がかりは3つあった。まず、その言葉が載っている本の注釈を読むか、手元にある英語の辞書を調べるか、我が家にあった平凡社の百科事典で調べるかである。
 今ならリベラルアーツに関するありとあらゆる情報がたちどころにネットで一瞬にして調べることができる。だが、やはり私の中には50年前に調べたリベラルアーツの記憶が残っている。私は高校時代に買った英語の辞書を今でも座右の書として手の届くところにおいている。この研究社のCONCISE ENGLISH-JAPANESE DICTIONARYはほれぼれするようなイラストレーションでこれ以上のものが見つからないということで現在でも使い続けているがこの辞書にはこう書いてある―(中世の)学芸⦅文法・論理学・修辞学・算術・幾何・音楽・天文の七つ⦆;(近代大学の)教養学科⦅語学・自然科学・哲学・歴史・芸術・社会科学など⦆その後こんな説明がある、[L artes liberales arts of freemen:ローマ時代に(liberi (freemen「自由民」)だけに許された学芸]―との記載があり、私は最初の記述を記憶して、その後にこんな解釈を自分なりにした。要するに教養は顔に出るという事なのでそのために実生活にはあまり関係のない学問をしなければならないと。
 その後に私ならではの教養から出た話がこう続ける。つまり、ローマ人はお風呂が好きで交際の方法としてお風呂場が使われた。いわゆる裸の付き合いがローマ人の基本なのである。裸の付き合いの最大のポイントはその人物をごまかすことができないという事である。たとえば権威というものがどのようにして分かるかというと普通の状態ならその人物の服装で判断できる。当時、絹のトーガを着ている人と麻のトーガを着ている人のどちらが偉い人かというと絹のトーガを着ている人とだれもが判断する。さしづめ、今ならゼグナのスーツを着ている人とアオキのスーツ着ている人の違いのようなものかもしれない。ローマ時代と言うだけではなく、日本でも戦前までは被服は権威をあらわしたものである。
 では裸だとどうなるか、その人の話す言葉からわかる知識や洞察、思索的な仕草や容貌でその権威を感じ取ることができる。まして今とは違いそこは公式な交流の場なのである。こんなこともあったかもしれない、裸になるとその主人より従者の方が聡明であることが一目で分かるのである。要するにローマ時代には教養がすべてなのである。
そんな理由からリベラルアーツは重要視されたのではないかという事である。そんな私の教養が現在、殊のほか身近になっている。現在の教育でこの言葉がその学校の強みや特徴としてクローズアップされているからである。たとえば上智大学やICUではリベラルアーツに力を入れている。キリスト教というバックボーンの強みとしてリベラルアーツを大学の基本科目にしている。しかし、現実的に考えると大学に入学するのは18歳である。いわゆる人間の原型が出来上がってしまう年齢である。とすると上智大学やICUのそれはいわゆる知識としてリベラルアーツ教育をするという事であるがよく考えると本質的ではない気がしないではない。単なるセールストークのような気がしないではないからだ。と言ったら彼らは本学に入学する人物はその素養がある人ばかりであると嘯くかもしれない、それはいいとして・・・。
 この件に関してかつて、文科省の文部次官であった鈴木寛氏のインタビューをする機会があって、私は一夜漬けでかれに関する情報をネットの中から集めた。ある記事の中です“イギリスの場合、大学に入学する子どもたちは皆リベラルアーツ教育が終わっていますよね”と言っているのである。私はその意味が分からなかった、イギリスではどんな子供でもリベラルアーツがいわゆる義務教育の段階で授けるのか?と考えたのだがこの解釈はかなりの点で間違っていた。
 一つは彼が言っている大学とはオックスブリッジのことを指している。この2校は日本の大学とは位置づけが違う。そして二つ目はオックスフォード大学もケンブリッジ大学もその入学者のメインはパブリックスクールの出身者であり、単に偏差値が高いだけの子どもではなのである。パブリックスクールというと「チップス先生さようなら」や「炎のランナー」でおなじみの憧れの世界であるが、その映画の中からは体系的にパブリックスクールにおけるリベラルアーツについての何たるかは分からない、だが今から考えるとその映画の感動的な要素はリベラルアーツの本質のような気がしないではない。
 私はそんな時にある新聞記事の中で池田潔氏の書いた「自由と規律」という本のことを知った。むかし、手にした記憶があったので本棚を調べると、岩波新書の中でも古典に属するのではないかと思われる1949年発刊の本を探し出し、今度は丹念に読み始めた。池田氏はリース・スクールというパブリックスクールを経てケンブリッジ大学に入り、それからハイデルベルグ大学で勉強した英文学者である。余談だがかれの父君は三井銀行の創立期の立役者の池田成彬でかれは明治時代のハーバート大学で学んでおり万代順四郎の前任者でもある。日本にも雲の上の人たちは雲の上の教育を受けているのだということを思い知ったのであるがリベラルアーツを端的に知りたかったのなら池田潔氏の「自由と規律」を読むといい。これ以上の好書は滅多にないのではないか。私はこれを読んで鈴木文部次官のいった意味が分かったと同時にこれを大学で教える難しさを知ったのである。
 確かに教養なのだが、その教養の原点はやはり、初等教育で決まるのではないかと思うからである。つまり、リベラルアーツ教育は人間の本質がまだ柔らかい内に授けるものであり、心が固まりつつある時期に自身と教師と学友とで築き上げて上げてくものであるからだ。「自由と規律」にはその過程がわかりやすく書いてある。
“自由と放縦の区別は誰でも説くことであるが、結局この二者を区別するものは、これを裏付ける規律があるかないかによることは明らかである”
                                  文責:泉利治
2019年3月25日      

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