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Column

地蔵菩薩

日本人らしく私の宗教観は西洋人、いや一神教を信奉する西洋人の観点から見ると、かなりいいかげんである。ただ、決して宗教に無関心というわけではなく、どちらかというと好きな部類に入るであろう。関心は高いと言った方がいいかもしれない。神社仏閣は好きだし、教会も大好きである。だから多分、私の葬式は既成事実としての浄土真宗で、戒名にも“釈“が付くのであろう。”院”が付くかどうかは金額次第だが、できたら両親と同じように院をつけたいものである。
 私の宗教コンシャスの原点に祖母の存在があることは間違いない。したがって、私が心から好意を持っている神仏のナンバー1は地蔵菩薩である。これはローマカトリックの総本山の御本尊セントピータースより上位にあることは間違いない。
 地蔵菩薩は庶民の労苦に手を差し伸べてくれる仏である。聞くところによると釈迦の入滅後5億7600万年後に弥勒菩薩が現れるまでの間の仏が不在の時に衆生を救う菩薩と言われている。したがって、私が小さい時に祖母はそのような地蔵菩薩の役割と機能をどうも語ってくれたのだろう。そんなことから子供心に特別の存在として今でも私の御本尊になっている。したがって「かさこ地蔵」というおとぎ話は私にとって現実味のある話として様々な影響を与えた気がしないではない。この話は祖母からの話が絵本等によって私の中ではビジュアル化されている。
 そんな宗教の意味が仏の現実的な機能によって印象付けられたと言ってもいい。わたしの生まれた山形の村のいたるところに石の地蔵尊があったような気がしている。したがって、鎌倉に越してきたとき六地蔵という地名と六体の地蔵尊を見た時、ここは都会ではないという実感を持ったものである。
 地蔵菩薩は子どもの守り神としての役割を持つことになる。それはいつのことからか分からないが十に満たないで亡くなった子どもと両親との結びつきの強さを謳った「地藏和讃」は感動を超えて、何か畏怖の念を覚える詩である。空也上人に作としたならば1000年以上も前のものである。あの時代、子どもが成人になる確率は極端に低いであろうから、庶民に仏の功徳を説いて回った上人にしてみれば子を失った多くの人々にその子たちもあなたたちの無事を祈っていますよと言う話は多くの人の心に響いたのではないかと思われる。

 そんなことからかもしれないが私にとって鎌倉の寺の中でも特別な存在であるのは建長寺である。建長寺は鎌倉五山の第一位を占める寺である。宗教も組織体なのでいわゆるヒエラルキーが必要なのだ。五山とは禅寺の格付けで、それは当時の宋の制度を取り入れたと言われるが寺格そのものは政治的な意味合いが大きい。とはいえ建長寺は禅寺としては鎌倉では一番古い寺であるのでそれだけでも第一位の資格はあることは間違いない。因みに第二位は円覚寺その後に、寿福寺、浄智寺、浄妙寺と続く、京都五山は複雑で京都五山の上に別格として南禅寺があり、第一位天竜寺、その後に相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺と続く。これを書いてみて気づいたのだがそれぞれ第五位の浄妙寺と万寿寺はほとんど印象がない寺である。
 寺格を決めるにはその寺の御本尊の格付けも大いに影響すると思われる。寺だけではなく本尊にも格付けがあるのである。仏教の場合は如来、菩薩、明王、天部という順位になっているらしい。メジャーな寺の御本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来と綺羅星のごとく輝く仏たちであり、その次は観音菩薩、文殊菩薩、弥勒菩薩、地蔵菩薩と続く、第3位で不動明王、愛染明王・・・。天部では毘沙門天、帝釈天、弁財天と続く。
 建長寺は禅寺としては超メジャーな寺であるが御本尊は地蔵菩薩である。これがどうにも不思議でならなかったが、このあたりの話をまとめて語るには責任ある立場の人は語れないので私なりに断片的な話を繋ぎ合わせて考えると面白いことが推測できる。
 建長寺の創立者(開基)は鎌倉幕府第5代執権で有名な謡曲「鉢の木」の北條時頼、開山は南宋の禅僧・蘭渓道隆である。現在の建長寺のある場所は当時(1253年)は地獄谷と呼ばれていた刑場であったらしく、本来、寺を建てるような場所には似つかわしい場所であったが、いわゆる幕府の中心に近くまとまった土地としてはここが一番ふさわしかったのだろう。刑場で露と消えた怨念も仏法の力で抑えられると思ったのだろうか?ただ、この刑場の近くにそこで命を失った多くの罪人を弔う寺があった。心平寺というその寺はどうも庶民に慕われた地蔵菩薩を本尊としていたらしい。そして、この寺には地蔵菩薩と罪人の不思議なものがたりが言い伝えられていた。

こんな話である 刑場での出来事、斉田左衛門金吾という者が無実の罪で斬首されようとしたが、打ち手の武者が刀を何度振り下ろしても左衛門の首は落ちなかった。実は彼は日頃より信仰していた一寸八分の地蔵尊を髻(もとどり)の中に納めていた。打ち下ろした刀はその地蔵尊が見代わりに受けてくれたのである。
 そのような地蔵菩薩とこの地との関係から建長寺の本尊が自然と地蔵菩薩になったと思われる。しかし、開山になった高僧の蘭渓道隆にしてみれば、なんでよりによって本尊が仏像のランクの中でも低い地蔵なのだ!ということでかなり反対したらしい。中国人のかれには日本における地蔵菩薩の法力のパワーが分からなかったのだろう。たしかに今、考えても開基の北條時頼も相当迷ったのではないかと思われる。蘭渓道隆という超一流の本場の禅僧に言われては迷いが出て当然である。
 しかし、日本人の中でのブランド力としては地蔵菩薩が勝ったのである。建長寺に入ると最初に出会う本堂には立派な地蔵菩薩が鎮座している。しかし、これだけメジャーな寺で地蔵菩薩を本尊にしている寺は日本のどこにもない。それだけ稀有な寺であるが私にしてみれば多くの人々の意思から建てられた寺ではないのかと思う。先日、この寺で鎌倉かるたの会が催され、多くの子どもたちがここでかるた取りをしたようであるが、これだけ格式の高い寺が子どもたちに身近な存在であるというのは地蔵菩薩の御利益のような気がしないではない。                 
                                 文責:泉利治
2019年3月11日 

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