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Column

ロマンテックロシア

現在、BUNKAMURA ザ・ミュージアムで表題の展覧会が開かれている。クラムスコイの「忘れえぬ女(ひと)」がかかっているが、実質はその絵が描かれた時代のロシアの絵の世界が主たるテーマなのである。
 このタイトル、本展覧会を観ずしてその本質は理解できないであろう。だいたいロシアと言うと一般の人はプーチン大統領のしたたかな表情しか思い浮かばないからだ。私の年代ならそのほかエリツィンが思い出される、かれが統治者のときにロシアと名乗ったような記憶が微かに残っている。
 この展覧会を観て率直に思ったのがロシアはやはりヨーロッパの一国なのだという思いである。少なからずそれまでの芸術の歩みの後先は別にしてヨーロッパ、あえて思い浮かぶのはイギリス、フランスなどと同期している気がしたからである。それらの絵の描き方、テーマ、描いた画家の思いなどは、たとえばビクトリア朝のイギリスの画家と見間違うばかりである。つまり、ごくごく日常の生活を叙情性豊かに描いているからだ。
 少なからず私はこのロシアの画家たちが描いた情感はフランスの当時の著名な画家を超えるのではないかと思えたくらいであった。というのはフランスの画家のような絵画の革新をめざそうとするような妙な気負いがなく、日常の生活の瞬間に訪れる詩的な瞬間を描こうとしているからだ。
 その中で私たちに伝わってくるのは豊かな感性や生活の中に感じる幸福感のようなものである。しかし、実際はその底辺にはロシア革命という政治的暴力が進行していたのだ。そのような暴力的な政治革命がなぜ起きたのかをこの絵の中から見出すことはとてもできない。というのはイギリスにおける絶頂期のビクトリア朝の次に来た世界はなだらかな右下がりの衰退だがそれでも平和であり、半世紀は世界のリーダーであったからだ。
 ロシアの場合、極端に舵を切ったことは間違いない。国自体がとんでもない変容を遂げた。そうなると美術どころの話ではなくなった。そこにロマンテックのかけらさえなくなってしまった。政治がどのくらい様々なモノやコトを規制するかわからないがロシアを制した共産主義はあらゆることを根こそぎ一掃した感がある。ロシアをこれほどの徹底に駆り立てたことに幾分、日本が影響を与えたとしたら日露戦争で敗北したことであろう。
 
ロマンテックロシアの情緒感を理解する手っ取り早い方法はチャイコフスキーを聴けば30分で理解できるであろう。あの信じられない抒情性は大陸の作曲家を凌ぐことは請け合いである。文学でその抒情性を理解するにはトルストイでも読めばよいかと思うが、少々時間がかかるかもしれない。それでもその共通性は理解できるのではないか。「忘れえの女」は1883年に描かれたと言われている。まさにイギリスのビクトリア朝の絶頂期に描かれている。
 この絵は何度も日本に来ているらしく、今回は10年ぶりと言われているが多分、簡単に言うと客が呼べる絵なのではないか。私などは今月、もう一回見に行こうかと思うくらいであるからだ。日本人の何かにフィットするものを持っているのだろう。私に言わせればルーブルのモナリザよりも格段に好きな絵である。それとどうこう言ってもロシアは日本に近い国なので何かと見る機会が他の国よりも多いのからもしれない。
 モナリザの人気は多分にあの高名なるレオナルド・ダ・ビンチに負っているが「忘れえの女」はあの女性の美しさ、日本人に分かる美しさにあるのではないかと思う。あの女性は西洋人女性というより日本人女性に近い美しさを持っている気がする。つまり、顔の輪郭、肌の色合い、黒い髪など、あの感じから何となく身長なども想像できるが決して170センチを超えているとは思えない。せいぜい160センチ前後なのではないか。
 あの表情は一見、高慢な表情なのだが、しかし、その憂いがその高慢さに別の意味を与えている。彼女の人生とそこに処した彼女の哲学のようなものがあのような表情にさせている気がしているが、そこにはぎりぎりと追い詰められたものに対する自身の最後の矜持のようなものがクラムスコイの天才によって描かれているのだ。
 今回思ったのだが私が肖像画を好きになったきっかけはこの絵がキッカケなのではないと思うようになった。というのはどんな人間でも深い洞察を働かせることができる被写体は人間を凌ぐものがないからである。人は生れ落ちてすぐに人間の表情から多くのものを読み取ることを学ぶ。たとえば、赤ちゃんは母親の表情から読み取ることで学びが始り、それがそれからの人生を左右することになるのである。したがって、肖像画はいわゆる絵が分からないと言う人にとっても深い、自分なりの洞察ができる唯一の絵画のジャンルなのである。
 今回、この展覧会を通して私が感じたのは何とはないロシアという国へのノスタルジーである。ロシアの森を含めた自然が美しく描かれているがこれだけの巨大な森を有している国はどこにもないはずである。しかし、私がロシアの森にノスタルジーを感じる理由が、分からず、不思議であった。そんな時に思い出したが、私が最初に自分の意志で購入した本が「偉大なる王」というロシア人作家が書いた本であったことだった。その時は表紙の虎の絵とその年齢の子には似つかわしい分厚い本であったため無性にほしくなっただけであった。いま調べてみるとこの作家はまさに森の人であったのだ。
 動物文学の古典の名作に数えられるこの本にはもしかするとロシアの森の美しさが描かれていたのかもしれない。知らずにロシアの森にたいする一種の憧れのようなものが10歳に満たない子どもの心に芽生えていたとしたならば60年後に今回の展覧会でよみがえったとしたならば何かの偶然であろうか。そう言えばヨーロッパに出かけると何時間も変わらないロシアの森を1万メートル上空から見ることができるが私は何時間も変わらないその森を飽きもせずにずーと眺め続けていた。
                                文責:泉利治
2019年1月21日
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泉利治

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