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Column

400編を書き終えて

 先週の10月29日分が丁度400編だった。今回は401号となる。目標が1000編を書くということにいつごろからなってしまったが?あと600編書く必要がある。松岡正剛の千夜千冊を目標にしたが計算すると1000編まで11年6カ月ある計算になる。私が72歳なので83歳6カ月になる。
今から半世紀前目黒不動の縁日でおばさん易者に見てもらったら80歳近くまで生きるよと言われた。当時としてはエラク長寿だなと思ったが今では平均寿命で、何とはなくその後の自分の寿命を80歳前後と考えるようになった。とすると命尽きる時が1000編の偉業達成ということになる。華々しい人生だな?
 人生の華々しさなんて自分でそう思えばそうなってしまうだけで少なからず、1000編の脳内記録は華々しいことになるのではないか、A4、2枚平均で書くとしたら一編2400字×1000編=2,400,000。240万字の思考であり思想なのだ。質より量。友人に俳人がいるがかれの場合1000句つくっても17000字だが間違いないことは量より質。私の選択は「労多くして益少なし」人生を象徴しているなとあらためて思う。
 書くということが意外と好きなのだなと思うことがある。私の場合は全く個人的なことなのでいわゆる、好き勝手に書いている。検閲のはいるような文章の場は願い下げたいものである。というのはそのようなスタンスで文を書いてきたからである。いかなる場合も文を書くとは生き方を書いているのであり、だれからもとやかく言われる筋合いのものではないからである。多分にストレスの発散という意味合いもあるので、逆にストレスを抱え込んでしまう。多少、文章が下手でも、意味を取り違えていてもそれが目的なのである。
 ただ書きたくても書けないことも結構あることに気づく。たとえば自分の恋愛遍歴とか、現在進行中の仕事のことや過去の致命的な失敗談の類である。このあたりを面白おかしく書けたらいいのではないかと思うがどうも筆が進まない。本来、このコラムはなにをかいてもOKなのだが、書けそうもない。また、2チャンネル的な誹謗中傷的なことは書かないのではなく、私の場合、あまりないのである。結構、世の中に不満が溜まっている人が多い気がするが、そのあたり、私はあまりないのが不思議かもしれないが、そのような書き物を見ては、そう考える人もいるんだという程度で妙に納得してしまう。
 個人的にこのコラムは司馬遼太郎の「この国かたち」に触発されて書き始めたのだが、今更ながら、あのような内容と文としての魅力はつくりえないなとつくづく思う。それとそれぞれテーマがいい。独創的な切り口というか、ハットさせられる上に、面白く、読後感が“いいことを知った”という満足感を得られるのである。「人ったらし」と言われた司馬遼太郎の面目躍如たるところである。
 また、もう半世紀近く前に読んだ「ヘンリー・ライクロフトの私記」という私記を晩年になったら書こうと思ったことも大きな動機になっている。随分、若いころ読んだ本だがライクロフトのような晩年を送れたらさぞかし幸せだろうなと思った。意外と思われるかもしれないが私が鎌倉という比較的自然に恵まれた地をえらんだのもあのライクロフトのような晩年を送りたがったためでもある。貧しい生活を強いられたライクロフトは思わぬ人からの遺産を受けてカントリーサイドで悠々自適な生活が送れるようになった。そんな、信じられない背景の中でライクロフトは自分の人生や、イギリスの世相や、周りの自然について語るのだが、そんな僥倖ともいえる境遇になった余裕のようなものを感じる筆致でかかれている。
 作者のジョージ・ギッシングの晩年はライクロフト氏のような幸せな、それでいて充実した人生を送ることができなかったような気がする。そんな意味からこの本は作者のアルカディアでの生活を夢見て書いたのではないかと思う。
 文は人を表すというが確かにこの400編は少なからず私自身であることは間違いない。性格や遍歴や思想などは誤魔化しようのないものである。私自身についてはもうそろそろ限界のような気がしないではないが、世の中の森羅万象に関しての受像機としての機能があるのでそのあたりはまだまだ書けるような気がしないではない。それにしてもあと600編書くのは並大抵のことではない。

泉利治

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