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Column

GERONTOLOGY

 ジェロントロジーのキックオフシンポジウムを聴きに青山学院に出かけた。一般的には老年学といわれるが、パネリストの一人である山野学苑の総長である山野正義氏は「美齢学」と呼んでいるので美容という切り口からの高齢化への取り組みのようだ。しかし、かなり切実な問題であることは確かで、美齢学というのはある面大きな解決方向を意図している点、馬鹿に出来ない。お婆さんにきちんと化粧をしてやったらオシメが取れて自分の名前も言えるようになった。このような例はかなり多いのだそうである。
様々な話を聞いて思ったのはジェロントロジーのいくつかのテーマの一つがアイデンティティになるのではなかと思ったことである。アイデンティティとは自分自身がどうありたいかと他者からどう思われたいかという係わりの中で自分自身を確認することである。
先ほどのお婆さんの話を聞いたとき思ったことはお婆さんが化粧をすることで失われた自分、いわゆるこうありたいと思っていた自分自身を取り戻したのではないかと思われた。こうありたい自分というのが本来は観念的なもの、理想的なものであり、その人だけが様々な要素の断片を繋ぎ合わせたもので自分は納得して受け入れているものなのである。
 先ほどのお婆さんにとっての化粧した自分は彼女が受け入れている、努力した自分、美しくなろうとしている自分なので、その時のエキサイティングな気持ちの高揚が忘れられた自分を思い出させたのではないか。こんなところでオシメなどをしている場合ではないと!女性にとって化粧、美麗はアイデンティティの大きな要素であることは間違いない。
 また、それに付随して思ったことはいわゆる高齢者のアイデンティティの研究に関して青年や中高年までの人間のアイデンティティ研究に比べて、少ないのではないかと思ったことである。アイデンティティの古典といわれているエリクソンの書籍等を見る限りでは老人のアイデンティティについて書いた論考を読んだ記憶がない。それはそれまでの世代のアイデンティティを研究しているうちに彼自身が歳を取ってしまったのでそこにふれることができなかったのである。
 私は手元にあるその著の一冊を見返しながら、手に負えないくらい面倒な本の内容を思い出したが、エリクソンがこの最後の大著を書いたのはなんと90歳の時である。あとがきを読むとエリクソンが亡くなった後、妻のジョウンが三章を付け加えたと書いてある。「第九段階-老年期とコミュニティ―老年的超越」のことだ。

・・・老いるということは偉大な特権である。それによって長い人生を振り返り、振り返りつつその人の人生を追体験できる。年を経ることに回想の範囲は広がり、場面や動作が目の前のことのようにリアルに蘇ってくる・・・・

 現に私の98歳になろうとしている義父がここに書いてあるような体験をしている。周りの人は認知症が進んでしまったと思っているようではあるが、その症状を仮にエリクソンが見たら異なる判断をするであろう。
老年的超越。エリクソンのこの解釈に50年前の自分なら多分、全面的に賛成したであろう。私も本当にそう思っていたからだ。人が学び続けると叡智の結晶になる。と心底そう思っていたからだ。私のそのイメージはバートランド・ラッセル卿から導かれたものである。本考でも取り上げたのでそれを読んでもらえばわかる。かれのソクラテス的対話ともいえるSpeaks his mindはまさにそれだ。エリクソンの言う老年的超越である。
 現実として20代の私が考えた老年的超越の気分が今でも幾分残ってはいるが当時のような熱狂的なものはない。様々な不安がその気分に水をかけていることは確かである。というのは、たとえば私にとって知的であるというのは多分に19世紀から20世紀に支配していたものであり、21世紀の知的というものにどうも馴染めないからである。少なくとも20世紀までには知の巨人のような人がいて、わかりやすかったが現在はSNSやAIを使いこなすフツーの若者やその人が率いる集団であるからだ。
 知の巨人ではなく、知の集団、知の部族のようなものなのである。というのはSNSが発達すると巨人の裏情報があっという間に拡散して、巨人ではなくなってしまうからだ。
 たとえば私がホンダに入った頃は本田宗一郎がまだ社長であった。そのころ毎週火曜日に先週の本田宗一郎の言葉というような回覧板が回ってくる。我々一般社員は仕事中に前から回ってきた回覧板をみて、先週本田宗一郎はどこに行って、どんな言葉を発したのかを知った。われわれはその回覧板からイマジネーションを拡げて何となく、えらい社長なのだなと思ったものである。私が入社2年目で社長を退任したのだが、そのころにはすでに松下幸之助や盛田昭夫などともに日本でもっとも知られた社長の一人であった。
 企業の広報部は自社の社長を巨人に見せるためにイメージをコントロールしていた気がするが、いまではそのようなことは無理で、社長の本当の姿がSNS上にだれかがアップする。そうすると人というものはそちらになんとはない人間味を感じるらしく、そちらの方が拡散してしまうということなのである。
若者に比べ老人の生活上の失敗は受け入れられやすい。認知症や老人の交通事故はマスコミが誇大広告のようにアップする。認知症でなくとも、ひとつの物忘れが認知症として認識されてしまうのである。エリクソンはそこまでは考えていなかった。
新しいアイデンティティの研究はそのような社会的背景をベースに考えないと成り立たないであろう。確かにジェロントロジーはこれからの研究分野なのである。

泉利治

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