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Column

ポジティブシンキング

 今回は偉い人について書いてみよう。というより社会的に成功するためのセオリーのようなものだ。ここ何回か仕事の関係で社会的リーダーのようなヒトの話を聞いている。それも超有名な人という点において、人生でもそんなに体験できるものではない。思った以上に大変なものである。というのは基本的にその人の世界についてそれなりに知っておかないといけないからである。予備知識ということになるのだが、それは礼儀でもあるからだ。
 世の中の出来事は3つの構造で語られる。ネガティブ構造、ポジティブ構造、ベタクリ構造。最後のベタクリ構造とはもしかすると専門用語かもしれない、話したことをそのまま書き記す事を言っている。昔のわれわれの世界ではテープクリアといったので、ベタにテープレコーダーをクリアすることからだ。
 本来、ニュースとはベタクリのニュースが一番望ましい。ところがそのニュースをわかりやすくするために説明を加えることになる。その説明には説明する人の主観が入ることになる。一時、朝日新聞が従軍慰安婦の件を一方的解釈によるニュースとして伝え、その行き過ぎ、誤解釈が問題になった。あのスタンスをネガティブ構造といっている。一般的にマスコミといわれているところはこの傾向が強い。そう考えるとNHKはベタクリ構造であろうとしている。
 同じように朝のニュースショウにもこのあたりの偏り度合いが各ニュースショウの個性になっている。したがって、メインキャスターはその偏りで選ぶのであろうと思われる。羽鳥慎一というキャスターは見事にベタクリ構造でコトをとらえている。
 たとえば、見事にネガティブ構造でしか語られないのがトランプ大統領である。私が知る限りこんな人はこれまで極悪人しかいなかった。その構造から考えると彼は二年間逃亡し続けている極悪人にしか見えない。したがって、ネガティブ構造の新聞はこんな手まで使う。“あのトランプ大統領寄りの○○紙でさえ批判している”確かにこの人ほどネガティブ構造で語られた人は私が知る限りヒトラー以外に初めての人のような気がする。
 ところが世の中の出来事をすべてポジティブにとらえようとする人が一部存在する。一寸の虫にも五分のいいところがあるに違いないというスタンスでモノを捉える人なのだ。この人の話を聞くと何となく力をもらえるし、世の中捨てたものではないという思いにかられる。聞いた後の気分を良くするような効果があるのだろうか、その人物も一種の畏敬の念で見てしまう。世にいうリーダーとはこう行く人をいうのだろうなという思いにかられる。多分、多くの人はこのような人についてゆくに違いないと思ってしまう。
 よく考えるとこれは一種の才能である。一般的にというか、民族的というか、その人物の性格というか、人の多くはネガティブにしかとらえない傾向がある気がする。どちらかというと私もその傾向があるからだ(だから人が付いてこないと、妙に納得してしまうが?)独断と偏見を承知で言うならば、育ちのいい人にはそのような傾向の人は少ない気がする。育ちをどうとらえるかだが、たとえば、こう定義しよう。ポジティブシンキング環境で育った人のことである。ポジティブシンキングをする両親の下で、そういう先生と生徒がいる学校で学んで、そのような人がいる社長がつくった会社で仕事をしているような人のことである。どういうわけかそのような人の友達もそんな人たちなのである。
 もしそういう人が、いわゆる成功した人たちだったとしたならば、その秘密はポジティブシンキングにあるに違いない。そんなことを考えるといまからでも宗旨替えをしないといけない気がしないではない。というのはこの考え方には人を幸せにするなにかがあるからだ。ところがこのような構造をつくるにはかなりのクリエイティビティを必要とする。
 こう考えるとわかりやすい10人中9人が極悪人といっているトランプ大統領をケネディ大統領に匹敵する大統領と評価するには想像を絶するクリエイティビティがいるだろう。
根本的に性格を変えないといけない気がしないではないが、これも訓練かなとも思えないこともない。
 私の時代に二人の国民的作家がいた、司馬遼太郎と松本清張である。前者はポジティブノベルを書き、後者はネガティブノベルを書いた。個人的には両方ともノーベル賞並みだなと思うくらいだ。かれらは同じスタンスで小説を書いて作家としての評価を勝ち得ている。双方、普遍的ではあるがリメークされる頻度は松本さんの方が多い気がする。かれの作品には何というかブラックホールのような暗さがあるがそこに人間の深みを感じる人が多いのかもしれない。たとえば、「砂の器」という作品にはどうしようもない事実(フィクションでありながら)を突き付けられる。そんなことが他のクリエーターにも刺激を与えるのだろうか、原作を超えた作品が生まれる。シネマコンサートというのが最近の流行りで客が呼べるイベントになっている。見てはいないが映像に合わせてオーケストラがそのテーマ曲を演奏するのだろう。現にあの映画のラストシーンはオーケストラのシーンがフィナーレである。テーマ曲も素晴らしい。映像も見事で実際の小説の中にはないシーンを映画の脚本家と作曲家がインスピレーションを膨らませ原作を超えたものにしてしまったのである。
 一方、司馬さんの作品はNHKの大河ドラマ専用になっており、どういうわけか映画にもならない。あまりにもスケールが大きいのかもしれない。最後の「坂の上の雲」にあたっては数年かけないと映像化は無理ということで放映も数年かかったおかげでインパクトも薄れて、あまりに話題にならなかった。しかし、原作の「坂の上の雲」は本当に素晴らしい。かれの手にかかればだれもが日本人に生まれてよかったと思ってしまうだろう。70余年生きてきた実感からいうと司馬さん的小説の人生の方が幸せに送れることは間違いない。ポジティブシンキングこそ人生を幸せにする妙薬なのである。

泉利治

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