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Column

ウィーンの家

 かなり前にウィーンの街角の古本屋の店頭に雪の中のウィーン市内の建物が描かれた石版画が気になったので購入した。気になったというのは何となく昔よく見た景色のような気がしたからである。後で考えるとこれは一種のデジャブという現象かもしれないと思った。ウィーンに最後に行ったのが多分15年くらい前になるが、その版画を見るたびにここに住んでおり、冬にはこんな景色をいつも見ていたという記憶があった。
 何かのきっかけでここは何処か調べたくなり、多分、ウィーンに違いないと見当をつける。この奥にある建物は何となく市役所か何かのような気がしたので多分、リンク沿いに建っているに違いない。それならストリートビューで一周してみたらわかるのではないかと思い。走り始めた、少し走ってみてこれはあまりいい方法ではないような気がしてきて、大使館で訊いた方がいいかもしれないと思い。オーストリア大使館のHPを見て尋ねてみた。とその前に例の石版画をスマホで撮影して送ろうとしたが定型の質問箱では写真を送るすべはなかった。4時近くになって大使館の文化部のスタッフからアドレス入り返信が来た。「分かるとは限りませんが、送ってみてください」との返答、それではということでスマホから直接送る。
 数時間して“Mölker Bastei(メルカー・バスタイ)にあるPasqualatihaus(パスクヴァラティハウス)のようです。ベートーヴェンがここに住んでいたことがあるそうで、4階が記念館になっています。”
 となると奥の建物はウィーン大学であることが分かった。ベートーヴェンが住んだのは私が住んだとされる?建物の奥の4階であるらしい。私はこの小さな坂道を雪の日には注意しながら、それも手すりにつかまらずに手前の独立家屋の入口まで歩いた記憶がある。



「ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)はウィーンで35年間働いていた。そこで彼は4階にあるこのアパートに8年間住んでいた。その後、まだ開発されていないウィーンの北部と北西部の郊外に向けての要塞化アプローチの壮大な眺めは、彼の様々な短期滞在の後、MölkerBasteiに戻った。ここでは、彼の4番、5番、7番、8番の交響曲、そしてとりわけオペラ “フィデリオ”の交響曲に取り組んだ。」
 しかし、この石版画のテーマはベートーヴェンの家というより、路地から垣間見るウィーン大学のような気がする。この石版画が彫られたのはどう見ても1884年以降のモノである。というのは大学の前を遮る市壁がないからだ。ウィーンの旧市街地は昔のヨーロッパの都市に多い城塞に取り巻かれており、それが近代になって取り壊されてその後にそこに市電を走らせたからだ。説明文の要塞化アプローチとは市壁のことを指しているようだ。
 ウィーン政府観光局の公式ページを見るとこの校舎は1877年から1884年に間につくられたとあるので1884年以降に彫られた石版画に違いなかった。私は1946年生まれなのでこの景色を見た記憶はそれ以前の70年間に見たといえる。ここまで書くとこの書き手は相当狂っていると思われるが一編の小説として読んでもらった方が良いかもしれない。というのは私は前世の記憶を楽しんでいるからである。



 上の写真を見てほしい。この写真は私が創った初めての会社の目の前の写真である。左が麻布十番商店街の道で一番手前の白い建物の3階がブランドワークスのオフィスであった。私がこの建物を選んだのはこの前に広がる景色ゆえである。右側の細い道はあの石版画と同じように小さな坂道を伴って建物から離れていく。私は毎日この景色をなんとはなく飽きずに眺めていた。今でもここを時々通るとなんとはない不思議な感慨に襲われる。
 前世の記憶なんてなものはありえないと断言したいが、なんとはなく自分は昔の誰かの生まれ変わりかもしれなという話は話としては面白い。今回の話は今から15年以上も前にウィーンの街角で買った一枚の石版画から発している。ほぼ、毎日その石版画を見ると何とはない郷愁に襲われる理由を知りたかった。それを小説風に書くと私の前世はここで何年か暮らしており、第二次大戦も生き抜いて、その翌年ここで亡くなったのではないかということである。無数の人間の魂はこの世界をただよっており、できればもう一度人生を送りたいと考えて、新しい命に入り込むのである。そう考えるとウィーンに惹かれる理由も納得できる。無数の魂がただよっているとは何となくありうる話のような気がする。小説のネタとしては短編小説になるかもしれないし、歴史を遡れば長編小説にもなりうる気がするが・・・・?

泉利治

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