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Column

ルルドの奇蹟

 科学が発達し、それ以上にSNSで世界のどんな些細なことでも白日の下に曝け出されてしまう現代においてルルドの奇蹟の70番目の事例であるとバチカンが認めた奇蹟は何とはなく、まだこのような古典的な出来事がこの世界のどこかで起きるのだなとの思いを強くする。ルルドの奇蹟については昔ならくだくだと説明しなければならなかったが先のSNSで簡単に調べられるのでそちらを参照願いたい。
 私はいたって古典的なことを好む人間なのでこの手の話には敏感に反応してしまう、その背景にはいたって宗教的なことが好きな性格や資質があるだろう。と言っても私はクリスチャンでもない。と言ってもキリスト教には昔から親近感を持っていた。これは多分、幼稚園がキリスト教の幼稚園であったことも影響している。
戦後の翌年に山形に生まれた私にはキリスト教の様々な話は一種のファンタジーであった。キリストに関する聖書の逸話、このあたりの話は奇蹟に近い話が多かったような気がしている。それがそのような絵とセットで説明される。その絵の世界は当時の山形の景色とはかなり違っていて、これまたファンタジー色を一層倍加させたものである。1950年頃の東北の一都市の幼稚園で語られたそのような話は5歳の男の子の想像力に火をつけたことは間違いなかった。このようなベースが今でもルルドの奇蹟の話に惹きつけられる背景にあるような気がしている。
だから今から20年以上も前に一年近く鎌倉の日曜教会に通ったことがあり、その時の説教者の加藤常昭牧師という日本基督教団でも有名な牧師の話にはいつも感心させられた。その牧師が唯一、冗談めかして語った話がルルドのお土産であった。先生のもとに通っている女性信者の一人がルルドに行き、そこの泉の水を瓶入れてお土産として加藤牧師にひと瓶差し上げた話なのだが、牧師、そのお土産が押し入れのどこかで眠っているという事を笑いながら面白おかしく語ったのである。本来、プロテスタントの世界ではルルドに関することは茶番だ!ということになっているので高齢のプロテスタントの女性信者がルルドに詣でて、お土産にそこの泉の水をそれも、プロテスタントの教会牧師に待ってきたというこの入り組んだ茶番劇を笑って語らざるを得なかったのであろう。多分、オレは今まで何をこの女性信者に教えてきたのだろうと・・・
ただ、そうはいってもバチカンは奇蹟の審査機関もあるらしく、十分に検証した結果これを70番目の奇蹟と認知したというからこれかこれで凄い話である。70番目の奇蹟とは長い間、鎖骨神経痛で歩けなかった高齢の修道女がルルドを訪れたことで突然歩けるようになったという事らしかった。この聖書の一話のような話、いかにもバチカン好みの話ではないか、でもなんとなく信じたい話である。ただ、このようなロマンがあって世界は面白いのだ。
これに比べると仏教にはこの手の一貫した奇蹟に関する話は聞かない、私が知らないだけかも知れないが。たしかに聖書には奇蹟にまつわるキリストの話は多い。とりわけカトリックはそこを取り上げるのだろうし、反対に至って哲学的で、内省的なプロテスタントはそこを避けているような気がしないではない。
このルルドの元になった聖母を見た少女ベルナデット・スビルーは35歳で昇天したのだが、その後、バチカンの審査によって聖人として認められた。その際のクライテリアが凄い。死んでも遺体が腐敗しないこと、という条件が付くのだそうだが、この新聖人も本当に遺体が腐らなかったようだ、科学的な見地から見ると一定の温度と湿度の中におかれた遺体は死蠟化するのでこの話は科学的にもありうるという事なのだが、火葬を常とする日本では考えられない一つの奇蹟なのであろう。
そんなことから火葬と土葬の違いが西洋ではゾンビなるものの発明に至ったのは注目すべき事である。私の友人がなくなった際に残された未亡人が火葬を拒否して土葬にしたことがあった。日本では法律で土葬が禁止されているのは?と思ってネツトで調べると実はそうではないことを知って?なのだが正確なことは不明である。ただ基本的に日本には荼毘に付すという言葉の通り火葬が重要な儀式として定着している。
私の友人の婦人はなぜ土葬にこだわったのかを忘れてしまったが土葬の場合、記憶や思い出が何となく遺体の朽ち方とリンクするのではないだろうか?火葬の場合、昨日まで生きていた人が突然、灰になってしまう怖さがあるのではないかと思っている。
京都で何ともユニークなお土産の一つで「子育幽霊飴」というのがある。それを売っている店は六道の辻という曰く付きの場所にあるのだが、昔、夜な夜な飴を一つ買いに来る女がいた、それが何日も続いた或る夜、店の主人が後をつけてみると墓地に向かいそこで消えた。そんなある日、土の中から赤ちゃんが泣く声が聞こえるので驚いて墓を暴いてみると土葬した婦人が棺の中で赤ん坊を産み落とし、その子が泣いていたのであった。それ以来、かの女はその店に飴を買いに来ることはなくなったという話なのだが、この話は土葬でなければ成り立たない。
また。ドラキュラも土葬でなければ成り立たない。映画では墓を暴いてその胸に杭を打ち込むのである。たしかに土葬は人間のイマジネーションを刺激する何かがありそうであるし、人が亡くなった人をイメージするのにわかりやすく、リアリティがある。あの棺の中で地中に埋められた後、どんな世界があるのかと想像が膨らむのである。
火葬の場合は何とも暢気なものである、カプセルホテルの最少サイズのような火葬口の前に集まり、読経とともに最後の別れをした後、別室に入って焼き終わるまで、食ったり飲んだりして世間話をしているので、そこに何ら暗い雰囲気はなかったような気がしている。それ以上に死者は間違いなく死者になるという実感しかそこにはなかった。

泉利治

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