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Column

司馬史観

 司馬史観とは司馬遼太郎の歴史観のことである。NHKの大河ドラマでも幕末から明治にかけての物語なら間違いがなく視聴率も稼げるらしい、日本国民をその頃の歴史好きにしたのは司馬遼太郎の功績と言うのもむべなるかなである。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」の映像化はあまりにもスケールが大きいので難しいといわれたが何年か前にそのスケールにふさわしく、これも何年かにわたり放映された。しかし、ドラマとは一気呵成に始めから終わりまで見ることでその価値が伝わっていくのであるが、何年かに分けて細切れに放映されてはその価値がまったく半減してしまう。映像としての「坂の上の雲」は鳴り物入りで放映された割にはあまり話題にならなかったのはそのせいなのではないかなどと思いながらYouTubeでその主題歌のスタンドアローンを聴きながら考えた。
 また、今年の大河ドラマの「西郷どん(セゴどん)」がかなり史実と違うという指摘を聞くにつけ、観る気を失ってしまった。まあ、林真理子だからな・・・?と作家のキャラクターと兼ね合わせて、何となく納得してしまうのだが、この手の事実ベースの物語の難しさであろう。
 そんなことから史実の真実というのはどこにあるのだろうか?というのは「セゴどん」の林真理子と「翔ぶが如く」の司馬遼太郎の違いはどこにあるのかである。作家の能力の違いと言ってしまえばそれまでなのだが。林真理子の場合は史実としてつじつまが合わないようなかなり事実ベースの誤謬もしくは作為なので、笑って見逃せそうである。
 もし、その物語が司馬遼太郎の「翔ぶが如く」と比較されて判断されてしまった結果としたならば少し意味が異なるかもしれない。確かに西郷隆盛にしても坂本龍馬にしても、それ以上の明治という時代にしても司馬遼太郎の歴史観に照らし合わせて判断されてしまいかねないことに対しての危険性なのである。
 司馬遼太郎が亡くなって22年最近、司馬遼太郎の物語が事実と違うという指摘を見かけるようになった。たとえば坂の上の雲での日露戦争の描き方や坂本龍馬の機能・役割などについてである。この手のことはよくあることでその時代に手に入る最高レベルの情報の下に物語を作るのであるが、その後、新しい事実の発見が彼の場合22年間にどれだけ出てきたかを考えると、それらの新発見がそれまでの情報をもとに書かれた物語と齟齬をきたすことは往々にあることだ。このようなことは歴史小説に限らず、科学の世界や犯罪捜査などにもある話である。犯人として死刑にされた人が後年に発見されたDNA鑑定をしたら違っていたというようなことに近い話なのではないか。その流れで行くとその小説、科学方程式、その裁判は嘘八百になってしまう。
 司馬遼太郎の物語に関して、史実が好きで読んでいる人はどのくらいいるのだろうか。思うにそれより、その物語の背景にある司馬史観に惹かれているのではないかと私は思うのだがいかがなものであろう。司馬史観とは何なのかというと日本人の素晴らしいアイデンティティなのである。日本人とはこのように考え、このように行動する人間なのだという事を書いているのである。したがって、司馬遼太郎は自分の考える日本人像を持った人物を埋もれた歴史の片隅から探し出すことになる。司馬遼太郎から取り上げられて、歴史上の偉人になった人はかなり多い。高田屋嘉兵衛、坂本龍馬、秋山真之・好古兄弟・・・本来、専門家の世界の人物だった人が生き生きと現在の世界に蘇ってくるのである。私たちはそれを読んで日本人の素晴らしさを再確認するというわけである。
 司馬遼太郎によって日本人は人間としての自尊心を覚醒させられたといっていい。
その誇り高い日本人を日本人の誰もが否定できないという事実の上に司馬遼太郎の物語が愛される所以がある。話は飛ぶがこの度のピョンチャンオリンピックで韓国の国民性がいたるところで露呈された。たとえば、パシュートで最後に一人が置きざれてしまい、それを最初の二人が非難した。そのことに対して大統領のウェブサイトに最初の二人の代表資格剥奪の声が30万とも50万とも集まったことである。
 この話の背景には日本の存在があった気がしている。日本チームが持ち前の努力で、世界が驚くようなチームワークと独創的な手法を使って見事なチームを作り上げ金メダルを勝ち取ったのである。韓国は大嫌いな日本にスポーツとしても、国民としても、人間としても圧倒的な事実として敗北したのである。その一連の事実に多くの日本人は誰もが、”韓国ってこのような国なのだよね・・という何とも言えないような思いを抱いたと思われる。
 多くの日本人は韓国に対してはたとえば慰安婦の問題などで何とも言えない韓国の怨念の深さの暗黒を感じている。オリンピック後、文大統領は改めて日本を標的にした新政策?を発表した。そうすることによって支持率が上げるためだという?政治とはそのようなことだから仕方がないにしても、日本の政治家も、国民もそのようなことは絶対しない。なぜか?日本人だからである。
 多くの日本人はそのやり方に対して疑問を持っている。そして、韓国の国民性に疑問を持っている。その疑問の根幹にあるのは韓国人のアイデンティティとは何なのだろかという疑問である。私などは世界の晴れの舞台でホスト国であるパシュートの選手があのような行動をするのがあの国の国民性であり、それに対して資格はく奪を求める何十万人もの国民の声が、韓国のアイデンティティなのである。それは永遠に救われないアイデンティティなのである。
 日本人が矜持として持っている自尊心とはこのような行動を生まないし、このような非難はしない。もし、誰かがしたとしてもそれをかき消すだけの多くの声が上がるのである。司馬遼太郎はそのような日本人を生涯書き続けたのである。韓国を際限のない泥沼から救い出すのは韓国人の誇りや自尊心の所在を明らかにする人なのではないかと思う。

泉利治

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