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Column

元旦

2018年の元旦はうららかな日和で、例のごとく早々に初詣に出かける。鎌倉に住んで30年、初詣の場所は事欠かない。ただ、メジャーなところにはいかない。ここ数年は材木座の八雲神社に出かける。ここは村社であり地元の氏子によって守られてきた。何となくここを選んだのは絵になるお飾りがあるからである。ただ、今回初めて我が町の村社ともいえる山崎天神に初詣に出かける。自宅から歩いていけるところで天神山の頂に立派な社がある。といっても大げさなことはなかった。町でよく見かける人を多く見かけたのは村社ならではである。山崎天神は室町時代に京都の北野天満宮を迎えたと言われており,本殿の祭神は菅原道真である。この近くに宝積寺と共に迎えたのは円覚寺に住んだ無窓国師である。宝積寺は跡形もないが山崎天神は今も健在である。
 郷土史を調べると宝積寺は京都の山崎に現存する寺であり、京都の入口にあるこの寺はイメージとして鎌倉の入口にもあたり、この山崎という地名も京都の山崎にちなんで名づけられたという説もある。山崎とはサントリーのウィスキー工場で有名な地名で高級ウィスキー「山崎」としても名高い。30年近く前に友人が我が家に来る時にお土産は何がいいですか?と聞いたので「サントリーの山崎がイイと!」言ったことを思い出した。
 そんなことから、何となく宝積寺があったあたりを通るたびに今はローソンだが、昔は寺があり、寺も無くなるという事があるのだと、いわゆる会社のように倒産するものなのだなと思い何とも言えない気になったモノである。
 ここ何年かは八雲神社をお参りした後、浄土宗の名刹光明寺に立ち寄りお参りをして海に出る。今年も見事なまでに快晴で海辺をマウンテンバイクで坂の下まで走る。多くの人が海辺を散策している。暖かい海辺は風もない、小さな波で踏み固められた砂浜は自転車で走るのには丁度いい。坂の下まで行くといつものことだが御霊神社に立ち寄る。この神社は青春ドラマの舞台になったので有名になった。入り口に江ノ電の踏切があるので覚えている人も多いのではないか。テレビドラマではその踏切の脇に主人公の家があったのだが、実際にはそんな家はない。
 鎌倉はそんな点からもドラマになるロケーションが豊富にある。私は京都好きだが京都に比べると歴史的な色が薄いぶん、作家によって自在な色に染まるのではないかという気がする。というのは鎌倉の歴史は京都に比べると薄っぺらな感じがするし、私に言わせれば文化の薫りがないのである。鎌倉幕府を立ち上げた武家にしても、山賊に毛の生えた程度の人間が寄って集ってつくり上げた幕府で、文化の源泉は京都であり、そこを開いた人の中でも教養人はみな京都を向いていた。幕府の終焉は血で血を洗うような陰惨な物語しかなく、鎌倉の歴史に文化の薫り、人の心を動かすような物語は一切ない。そんな中では世界遺産にならないのは当然である。
 鎌倉の終焉は早く、あっという間に歴史の表舞台から消え去ったのである。そんな中で唯一、文化の片鱗があるとしたら、仏画を描くために京都から招かれた絵師が住んだとされることくらいなのではないかと思っている。
 報国寺という寺がある。竹の寺として有名な寺でその奥の谷戸を宅間が谷という。絵仏師の名門宅間派の詫摩為久が鎌倉で作画をした。その工房がそこにあったとされる。記録によると為久は1184年鎌倉に下向して《正観音像図絵》を描いて帰洛したしたとある。その後1231年に再度下洛したとあるので、それ以後、鎌倉に住んだのではないかと思われる。そんなことを書いて、年表でその関係を調べると鎌倉幕府が成立したのが1192年なので、二度目に鎌倉に下向した時、この新興の都で一旗揚げようと思ったに違いない。
 詫間派は平安時代から続く画系としては名門である。まして仏画のスペシャリストである。その上、鎌倉は当時の新興宗教禅宗のメッカである。多くの寺がこの時代につくられた。仏画の注文はこなし切れなかったのではないか?したがって、宅間が谷の工房はかなり大きなものであったに違いない。そこに至る道は鎌倉下道と言って鎌倉から金沢に抜ける三大街道の一つで、江戸湾岸を北上して墨田の渡しを越え、青戸、松戸から下総国、常陸の国への下総道だったので、鎌倉の主街道だった。
 また、その工房は鎌倉最大の大伽藍永福寺にも近かった。1189年に建設が始まったこの大伽藍、源頼朝がたてた最大の寺院で奥州合戦の慰霊のために建てたと言われるが1405年に焼失してしまい、現在、二階堂という地名だけが残っている。その寺院は平泉の中尊寺を模したものと言われており、現在、CGで見ることが出来るが、もし現在まで残っていたとしたならば鎌倉は世界遺産に登録されていたろうと思われるくらい見事な寺院であった。また街道を挟んだ反対側には勝長寿院の建設も始まっていた。
 詫間為久は鎌倉には間違いなく商機があると思った。これだけ大きな寺の建設は京の都にも昨今滅多にあるものではない。京都からの出稼ぎの絵師にはこれだけの仕事を依頼するところはなくなるだろう。
 しかし、鎌倉幕府は為久が工房を開いてから100年経った1333年に滅亡する。だが、その後も澤間式部法橋長佑が1350年に称名寺三千絵を描いたという記録が残っている。また、1386年詫磨浄宏が飯能にある法光寺の地蔵菩薩像を彩色している。
 いずれにしても150年近く鎌倉で一つの文化を創り続けたのである。その後の鎌倉は室町幕府の関東出先機関だったが、それが古河に移ってからは歴史の表舞台からフェードアウトしていくのだが、歴史的な時間で見ると鎌倉につくられた文化というものは映画のセットのように薄っぺらな気がしないではない。唯一の真実は鎌倉にあったとされる失われた寺院とそこに存在した仏像や仏画だったのではないか。宅間が谷はそこで画業に勤しんだ絵師たちの微かな薫りがするようである。

泉利治

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