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Column

募金・献金・基金

新年おめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。

ということで何かふさわしい、夢のある話をしたい。昨年末にハーバート大学のホームページを見ていたら、トンデモナイニュースが飛び込んできた。学校創立以来の寄付があったというニュースである。その金額は1.5億ドル、これだけでは実感がないので1ドル百円で換算すると何と150億円。それが寄付なのである。驚くというより、呆れてしまった。まず、私の論理構造の中では消化しきれなかった。この方、Citadelというアメリカの投資銀行の社長。若い社長で40歳前後かとも、コンマ何秒以下で株の売り買いをする銀行の社長である。もしかすると一晩でそのくらいの利益を創り出すのかもしれない。それも凄いが、それ以上にその利益や儲けたお金を自分が卒業した大学に寄付をするというメンタリティである。
 私は言わせればその狂信性?の由来はどこから来るのだろうか?狂信性とは少々違うかもしれない、ここで言っている狂信性とは自身は極限の生活状況に陥っても寄付をするという人のことを指している。昔、流行りの新興宗教に全生活を捧げて普通以下の生活に甘んじている何人かを知っているからだ。したがって、このアメリカの投資会社の社長は150億円寄付しても投資会社の社長なので次の日から億単位のビジネスで早々に取り返すのだろうから、単なる狂信性ではないのだろうと思う。
 昔、ある寄付財団の仕事をした。その時に嫌というほど感じたのが日本という国に寄付をする文化がないということであった。したがって、その中でわれわれのやるべき事とはそんな文化の国と日本人の財布からいかに小金をくすねる方法を考えるか?という事であった。毎月少額の寄付を一年間続けてもらうそんなプログラムがその寄付財団では主流であった。毎月千円で一年間の金額は一万二千円である。それだけもらえればまず満足である。
 それとモチベーションの創出である。まあ、財布のひもを緩める動機付けであろう。ユニセフは一種の脅しを平気でやる、団体である。やせ細った幼児が泣いている動画を見せてあなたはこれでも、黙っていられるのですか?と投げかける。また別のところは10歳前後の少女が裸足でゴミ山に入って金目のものを探す動画を見せる。この子は生活のためにこんなことをやっています。感染症にかかることを承知で・・・てな具合で。
 私の担当したクライアントは家族の生活のために10代で結婚を強いられる少女にフォーカスを当てて、この子にきちんとした教育をというような動機付けで一代キャンペーンを張った。これはこれで素晴らしいマーケティングであった。
 ようするにこの手の脅迫的寄付の根幹にあるコンセプトはアドボカシーであることを後年知ったのだが、先のハーバート大学に150億円を寄付した人の心の内にはそれとはまったく次元の違うコンセプトがあるのではないかという気がする。脅迫的寄付というとその寄付をしている人たちの善意を踏みにじるようで申し訳ないが要するに人間の持つ良心の核心ともいえるところを集中砲火するからだ。この場合はそれらの集中砲火を浴びても落ちないということは健全な感覚を持たない人間に近いと言えるである。いわゆる人間の誰もが持っている心の琴線に触れるという戦略である。
 
150億円を寄付するコンセプトとはそれとは異なる?それは教育であることを今回知る。いわゆる寄付教育をその大学に入学した時から学生に始めることである。優秀な大学であればあるほどそこに入学した学生に晴れがましいことになる。そこを大学はもう一押しするのである。この晴れがましさはここで学んで、ここを卒業した人たちがつくり上げたものなのである。あなたたちはこれから、その人たちと同じような義務と責任を果たさなければならないのですと・・・そうすることであなたたちに続く後輩たちにも今のあなたたちと同じ思いをさせてあげることが出来るのですと。
 ようするに名門校に入ったならばそれ相応の義務と責任があるのだという事なのだ。その義務の一つが常に最高水準の教育を提供し続けられる資金を提供することなのだ。残念ながら名門校の門に近づくこともできなかった私には想像すらできないことなのだが、明らかに入学した時の上気した心の間隙にそこをつかれたとしたらその思いは一生を左右するかもしれない。
 日本の場合、東大の入学式の様子が時たまテレビで紹介されることがあるが、かれらは自分が最高の大学に入ったという自負と自信に満ち溢れているように思える。自分を置き換えてみればそうなるだろうと思うからだ。しかし、これまで東京大学は寄付をしてもらう必要は全くなく、そこに繋がる動機づけの必要などは全くなかったと思われる。しかし、その最高の瞬間から適宜に寄付につながる動機づけを行ったら間違いなく、誰もが生涯にわたって大学に寄付をすることを習慣的に行ったろうと思われる。そして中には億単位の寄付をなんのためらいもなく行ったのではないか。
 文化とは自然に発生するものではなく、教育によって生まれるモノである。日本に寄付文化がないのはそのような教育をしなかっただけであり、そんな中で寄付を迫るには例の脅迫的な方法しかないことになる。ただ、日本の基督教会にはそのような寄付教育が献金という形で根付いていた。教会の日曜礼拝の時に献金をするときだれもそれが当然のこととして献金をする。それは小さい時からそのように教育されてきたからであり、反ってしないと気持ちが悪いものである。
 何十年も前、数年間日曜学校に通ってことがあった。その時に一番感心したのがこの献金システムであった。日本のお寺もこのようなシステムが欲しいだろうなと思ったものである。ただ、それでもお寺だけではなく教会もかなり経営は辛いとのことで牧師さんがパート(といっても)大学で教えるとかをやらないと教会の運営に支障をきたすというような話も聞く。ただ間違いないことはその献金を教会にしてきた子供は後年、大成したときに間違いなく億単位の寄付をする基盤になるのであろう。これがキリスト教が世界を席巻した理由の一つである事は間違いない。その同じ方法論でアメリカの大学が世界を席巻しようとしているのかもしれない。

泉利治

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