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Column

椅子と座布団

 このテーマは多分、私の人生において最初に科学的、と言うより科学哲学的なテーマとして考えたことのような気がする。工業デザインを学んでいた学生の頃である。それから数年して「フルートと尺八」という同じようなテーマについて考えた。この問題は突き詰めると日本文化と西洋文化という大きなところに行きつくと思った。
 これはどちらが人類にとって幸せをもたらすものなのかという事で、いつもこのことを考えてきたので私の生涯における哲学的なテーマであろう。が最近は椅子、フルート、西洋文化に分があるのではないかと思うようになった。
 
 今から半世紀前、工業デザイナーになるべく勉強に勤しんでいた頃、椅子をデザインする課題が出された。工業デザイナーにとって椅子のデザインは最高の課題である。美しい造形と疲れないで座り続けることが出来る機能的かつ科学的な根拠を最上位において、コスト、材質、梱包性などそれに付随する様々の点を考慮して一個の椅子をつくり上げる。その頃、デザインを学ぶ学生にとって椅子のデザイナーの双璧と言えばチャールズ・イームズとハンス・ウェグナーであった。日本のデザイナーでは柳宗理や剣持勇がいたがグローバルな点では先の米欧の二人には敵わない気がした。
 チャールズ・イームズはハーマンミラー社の専属デザイナーとしてジョージ・ネルソンやアレクサンダー・ジラルドと共にデザイン界では輝ける存在であった。一方、ハンス・ウェグナーはデンマークのデザイナーで木材を使ったそのデザインは普遍的な美しさを持っていた。イームズは典型的なアメリカのデザイナーらしく先端素材を椅子に応用して新しい世界を創ったのに比べるとウェグナーは最も古典的な素材である木を使って、時代を超えた椅子をつくり上げたといえるだろう。
 というような作品を参考にしながら課題に取り組むのだが、中間報告のような授業があって日本ではなぜ椅子がつくられなかったのか?という議題で話しあうことがあった。その中で人間工学の先生がそれに代わるのが座布団で、その上で日本人は座ることを工夫すしたので椅子を必要とはしなかったという事を言われた。要するに日本人は道具に頼ることをしない民族だからというのだった。確かに日本人にとっての道具と西洋人にとっての道具は明らかに違う。尺八とフルート然り、和弓と洋弓然り、筆とタイプライターもその部類に入るかもしれない。
 西洋人は人間をありのまま見つめて、人間をサポートする道具の改良に勤しむのである。それに比べると日本人はある時点で道具の改良はとどまり、それ以降は人間の方を改良していくのである。オリンピックのアーチェリーは西洋の弓での競技である。そこでは改良に改良を重ねた洋弓で的中率を競う。一方、和弓は的中率と言うより射る人の心の平安に向かう。とは言っても的中することは大事なのだが、心の平安がそれを左右するのでいわゆるプラクティスは心の修業ということになる。したがって、的が見えない暗闇の中でも名人は的の中央を射ることが出来ると言われている。というのは心の中に的があり、そこを射るので的が見える、見えないは関係がないということになるらしい。アーチェリーの人から見ると言語道断な世界と思われるが。
 ということが日本人なので椅子は必要がなかったというのである。しかし、デザイナーの卵の私はそれはそれで聴くべき話だなと思ったがどっちが良いかなどの即断はでき兼ねていた。ただ、どちらがより生産的かと言うと日本人のその発想は全く生産的ではないとう気がしていた。道具を発明し、その改良で人間の生活を便利にした結果、経済が発展して豊かになったのは西洋諸国であり、その国の典型はアメリカのような気がしたからである。ともかく、アメリカは何でも道具をつくり上げる文化なのである。

先日、ハワイに滞在した時のホテルのテレビでアメリカ中の放送が見られるのだが一番面白かったのは四六時中新商品の宣伝を流している番組であった、たとえば家庭用のお風呂を洗う専用の電動ブラシのCFを何度も目にした。正直、普通の家庭で本当にこんなものが必要なのか?と思えてしょうがなかった。仮に、我が家にそれがあったら使うだろうかを考えると、それを取り出してセッティングする前に洗剤とスポンジで我が家のお風呂の掃除は終わってしまう?確かにアメリカの家庭なら我が家のバスの5倍の広さがあるのかもしれないが・・・?と考えて何となく納得したのだが、ともかくそのテレビを見ると生活をしていてこんなものがあったならさぞかし便利であろうと思うようなものはすぐに商品化するアメリカ人の行動原理には敵わないと思った。
 たとえばそれを創ったとしてそれを売り出すのにテレビで放映する。そのお金はどうするのだろう?日本ならそれを阻む障害が幾重にも目の前に立ちふさがるだろうと思うのだが、アメリカのそのあたりの仕組みと、資金調達の仕組みが分からないので何とも言えないがともかく起業しやすい社会の仕組みができているのだろう。そう、日本なら金を工面してやっても成功は千に一つ、起業家がそのリスクを一人で被る。つまり、一人の人がそれを一人で被り、心の中と財布の中でその落とし前を自身がつけなければならないのである。
 アメリカ映画をみるとたとえばテロリスト取り押さえるSWAT部隊などが出てくるが、かれらが身につけているもの、持っている道具を見るとよく考えられているなと思ってしまう。日本ならばテロが出ないような心の教育をする方向に向かうのだろうが、アメリカ人はテロは出るものとしてそれを取り締まる人が安全に取り締まる安全な道具を開発する。
 経済的、市場のメカニズムからみるとアメリカはそこで一つの価値創造をするのである。
そのような積み重ねがアメリカの豊かな現実である。アメリカのフツーの住宅地を歩いて気づくのはその町の豊かさであり、整然とした美しい町並みである。
 
その原点が椅子と座布団の違いから生まれた気がしないではない。その行き着いたところが人間以上に考えるAIという考える道具であろう。しかし、そこに行きつく先に座布団の可能性がないこともない気がしないではないが?

泉利治

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