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Column

逝く人

 夕方の新聞で懐かしい人の写真を見た。美しいカラー写真で笑っている。それが追想録というコラムの中の写真だったので驚いて貪るように記事を読むと思い出のような内容だが最後に8月12日没 73歳と書いてあるところまで来て、やっと亡くなったことが分かった。私より7歳位年が上と記憶していた。生前そう彼女の口から聞いたのだ。それでも早いと思った。
 彼女の会社の仕事を何回かさせてもらった。正直、期待に応えることが出来なかった。それが心残りであった。彼女とは何かと共通項があった。山形出身で、鎌倉に住んでいた。そして彼女は知らないが劇的な出会いをした。偶然にその朝の電車の中で見かけた女性であることを知って驚いたのである。
朝、確か横須賀線の中の3人掛けの席のドア側に座っていた彼女は放心しているような感じでじっとうつむいたまま動かなかった。彼女の周りだけ別の空気が支配していた。その景色は今でも目に浮かぶくらいインパクトが強かった。その数時間後、私は営業のスタッフと共に初めて彼女の会社に向かった。そこにいたのは今朝の電車の中で見た女性であった。
 その時の訪問で仕事がとれたか定かではないがその後、大きなプロジェクトに発展する。
決して大きな会社ではないが認知度は100%に近いと思われるその会社のニューアイデンティティ構築の仕事をさせてもらった。それ自体はほぼ大成功ではあったが、そのニューアイデンティティの証としての新商品開発で躓いた。商品は失敗であった。マーケテイング戦略から商品ブランド名、パッケージデザイン、導入リーフレットなどの制作にかかわりお披露目式にも参加したので、個人的にも気合いが入っていた。
 後で売れ残った商品を廃棄するのが悲しかったという話を聞いて心が痛んだ。それ以来敷居が高い会社になった。そんなこんなでもう、20年近くたったようにも思えた。しかし、何らかの方法で汚名挽回の機会と思っていたが残念である。
 一度その会社がアメリカの投資会社の敵対買収の標的にされた。それで俄然、社長としての彼女の存在が社会的にクローズアップされた。彼女はアメリカの投資会社の金にものを言わせるハゲタカと戦うジャンヌ・ダルクのような感じで連日テレビを賑わした。その時はその比喩がぴったり当てはまった。何か月かして、その状況を見た私は彼女に手紙を書いた。半月位して彼女から手書きの手紙が届いた。忙しい最中の手紙だったろうと思われたが、しっかりした筆至で見事なまでの内容であった。その手紙が届いてからほどなくして当のハゲタカ投資会社は諦めて日本から去った。今から考えると、日本はこんな小さな会社でも大きな魂を持っているのだというパンチを浴びせたのだ。
 その後、そんな話は聞かないし、そんなことで怖れることもないことを日本のビジネス界に示してくれたような気がしないではない。それはアメリカにも通じたのではないか?日本の会社は金だけでは動かない会社ばかりだ・・・?多くの日本の会社は枕を高くして眠れるようになったのではないか。彼女のおかげである。
 昔、彼女から大きなカサブランカの花束をもらったことがあった。理由を聞くと山形の実家で花を栽培しているとのことであった。そんなことから思うのは地方の裕福な商家や農家のお嬢さんを嫁に出す前に東京の短期大学に留学させる?ということがあった。現在70歳を超えた女性たちの時代である。東京で社会勉強を兼ねて生活することがその後の彼女たちの人生を洗練させたものにするとの思いだったと聞くが?パリやニューヨークに行かせるような気分だったのではないか。そんな彼女たちが2年で戻ってくる東京の女子短期大学は丁度いい。彼女もそうであった。しかし、彼女は実家に戻らずにビジネスの世界に飛び込んだ。以来半世紀、彼女は山形に帰ることなく、こちらで亡くなった。この先は推測だが彼女はビジネスと結婚したようだ。しかし幸せであったと思いたい。彼女の冥福を心から祈りたい。

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