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Column

疾風怒濤

 先週の政界はこうだったのか?というよりドタバタ劇と言った方が正しいのかは時間が回答してくれるであろう。そもそも、この言葉はドイツ語のシュトルム・ウント・ドランクの和訳がこれで、ゲーテの生きていた時代に起きた文学革新運動を表現した言葉で決してドタバタ政治劇ではないのでドイツ文学者には私の比喩を笑われそうである。
 こんなことを思った理由は今回の政治ドタバタ劇の比喩として芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を引いてこの状況を表現しているからである。たしかに釈迦に当たるのは民意であり、カンダタは小池百合子であり、他の地獄の亡者たちは前原をはじめとする、民進党の連中である。この状況は刻々と変わるがカンダタと同じように小池百合子もうかうかしておれないのではないかと思う。というのは彼女の目の前で自分を支えている糸が切れないではないからだ。切れるか切れないかは彼女の心の中に生まれる想念の質次第だからである。
 そんな意味でも今月は日本が変わる何かが起きるのかもしれない。ただ、国家が安定してくると何が起きてもそんなに中身が変わるとは思えないが、もし、変わるきっかけが外部にあるとなるとどこが政権を取っても同じとは言えないだろう?北朝鮮から攻め込まれることはないとは思われるがそのような外部環境の変化が起きる時、政権が虚弱であると困った状況になる。東日本大震災の時、政権を持っていた政党が自民党でないことがどれだけ最善の判断の機を逸したかわからない。あの時を知っている国民がよもや同じような判断をしまいとは思うが?選挙というのは多分に不確実性が高い意志である。トランプ政権も英国のEU離脱もちょっとした選挙の悪戯とでも言える結果であり、多分に、いや、かなり偶然が働いている。幾分、予想できなかったことではないが。
 今回のテーマは特別政治に関心が高いわけでもない私がどうしてこの一週間の政治劇にこうまでも惹きつけられるのか?という点にある。人が興味を抱く理由や、面白いと思う理由を知りたいがためである。また、多くの人が惹きつけられることの共通原理のようなものを知りたいがためである。
 その発端は簡単で面白い小説の書き方やセオリーみたいなものをここ一、二年考え続けてきたが、その解が分からないで困っている。したがって、逆に面白い小説やドラマなどを見てなぜこれが面白いのか、なぜ、早く次が見たいものだと思うのだろうか?と考えているのである。たとえば、私はNHKの朝のテレビドラマなどは見ない主義なのだがどんな番組でも少し見続けると明日の展開が待ち遠しくなるのである。どう見ても興味を抱くことのないようなオバさんやオジさんのその後が気になる。なんてなことがよく起こるのである。たしかに坂本龍馬や西郷隆盛のドラマで彼らの来週の展開なら納得いく話なのだがである。
 小説でいうならば、早く続きを読みたいと思うような心理とその内容のセオリーみたいなものである。ただ、これは小説に限らず、映画然り、舞台然り、テレビドラマ然りである。その根底には、どうやったら面白い小説書けるのか?つまり、面白い小説のセオリーが知りたいということなのである。
 ただ、私はこれと似たことを意外とやっていることに気づく。たとえばプレゼンテーションだ。この組み立てはいたって小説的な気がしないではない。いまとある会社の新創業宣言のプレゼンテーションをいくつかのセクションに対してやっている。ここで訴えたいことのフレームが二つあることに気づく。❶新創業宣言の内容について、❷その内容がどのようなプロセスから生まれたのかについて。基本は過程と結果の二つの組み合わせでストーリーができている。
 プレゼンテーションは時間が限られているので一時間バージョンと三十分バージョンがあって、一時間バージョンでは❷のどんな作業を今までやってきたのかをキチンと話して、問題点をあげて、それに対する対応策の話をして、向かうべき着地点を指し示す。❷を先に話し、最後に❶を話す。この場合の話の面白さは具体的な問題点、多くは聞き知ったことでそのようなことに対していわゆる専門家はどう判断して、どのように問題解決をしようとするのかというところを話す。これはこれで面白いと思われる。たとえばその中である一つの問題に対して聴者と私は同じ問題に対峙することになる。私の話を聞いて聴者は感心するか、三下り半を押すか、面白いと思うか、自分とは違うなと思うか?多分、ベストは面白いと思わせて、なるほどと思わせる展開だろう。要するにプレゼンテーションなら聴者と小説なら読者と同じ土俵を共有することになる。
 ところが三十分バージョンのプレゼンテーションになるとことは違ってくる。目的は内容を短時間に知らせることが目的になる。❶を最初にぶつける。推理小説でいうと犯人はこいつだということを知らせる。そこからなぜ、殺すに至ったかというようなことを過去に遡って話す。最初に結論を話す良さは時間切れで重要部分を話せないということがないことである。それと聞く人にとっては初めに結論ありきの方が分かりやすいという人も多いからだ。ただ話す側に立つと最初に結論を話すことになんとはなく不安を覚えるものである。最初にこの結論ではないと思われたら後の話に聞く耳をもってもらえないからである。話の過程を話して部分部分で納得してもらうということは難易度の低いところの了解を積み上げて最後の大決定に賛同を貰うということである。小さな説得を積み上げるのである。
 推理小説でもこれと同じようなものがある。また、昔ヒットしたテレビドラマの「刑事コロンボ」は❶を最初にぶっつける方法である。最初に犯人を知らせる。このドラマの面白さはその犯人・・・これはセレブかエリートなのだがそれを貧乏な刑事を追い詰めるという伏線があり、ここが万人に受けた理由でもあろう。エリートはよれよれのコートを着た貧乏刑事を最初は翻弄するがこの刑事見かけによらず相当なやり手なので徐々に追い込まれる。この方式は今までになかったタイプの犯罪刑事物語だったので世界的に大ヒットした。物語の展開の方法、特徴ある刑事像などのすべてに斬新だったから受け入れられたのだろう。
どうも面白い小説の結論はでないようだったが一つ分かったことは斬新ななんらかの要素がいるということである。しかし、刑事コロンボの手法だって小説の世界では決して斬新な手法ではないがテレビドラマでは新しいのかもしれない。或る業界で使い古された手法が別の業界では斬新であることはよくあることだからである。このテーマもう少し考えてみたい。

泉利治

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