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光悦はばたく 地の巻

 本考の発端は文章力を高めるということが目的であった。私のいうところの文章力とは頭に浮かんだ想念を文章にする力のことである。したがって、本考を読めば筆者の思想、発想、着想などたちどころに分かるというものである。
 そんな能力の余技として小説を書いているが、現在、どんなレベルの文章を書いても世の中に問うことができる時代になったからである。本考でも何回かふれたが今回のものを入れて小説5篇、随筆1篇である。本考のタイトルにある「光悦はばたく」は5月7日に出版したもので本阿弥光悦と本阿弥家800年の物語りである。
 先日、光悦に関した資料を渉猟している時に光悦に関する松岡正剛の言に出会ったが、その中で彼が言っていたのはこれほど有名な光悦ではあるが、光悦に関するまともな論文がない?というような話でたとえば素性の知れない俵屋宗達でもちゃんとした研究書があるのになぜ光悦はないのだろうかという疑問なのである。たしかにそう言われればそうかもしれない。
 光悦はフィーリングとしてあまり惹かれるものがない?人間的に魅力がない。というより何かうさん臭さがある?もしかするとそんなことをだれしも思っているのではないか。それを露骨に表したものが松本清張の「日本芸譚」である。この本ほどそれを感じさせるものは読んだことはない。なぜなのだろうか?
 思い当たる節として2つ考えられる。一つは
先ず、光悦を生んだ本阿弥家という得体のしれない家の存在である。この家は家譜を見る限り、文和二年に百余歳で亡くなった五条長春を始祖としている。したがって、文和二年とは西暦1353年であるので、百余歳として1250年頃に生まれた五条長春を始祖としているので少なくとも770年前に始まった家である。
この家は意図的というより戦略的に名家をつくろうと思って営々と気づき上げてきた家である。なぜならば、どこの国でもそうなのだがその国で最も価値のあるものは家柄である。たとえばそのようなことと無縁と思われるアメリカでも、名家というものが存在している。それは小学校の世界史でも習った。ピルグリムファーザーズと言われてメイフラワー号にのってアメリカに最初に来た人たちを先祖に持つ家の末裔の人たちである。かれらは貴族という人がいない国の貴族といえる人たちである。余談だがハーバート大学が価値を持つのはそのような人たちが自国のリーダーを育てる学校として創設したという学校という由来がゆえに価値を持つのである。
アメリカ以上に歴史を持つ日本にそんな制度がないわけはない。その典型は天皇家であり、堂上公家の近衛家、九条家、鷹司家・・・。そんな中で本阿弥家の誰かは未来永劫、日本という国で社会的名誉とアドバンテージを獲得するためにはいわゆる名家としての本阿弥家を確立しないといけないと考えたのである。
ではどうやって名家を確立するか?それには名家の価値を分析してみるよい。名家というのは国家運営のスキルや特別の能力を有して家に与えられている。たとえば、天皇=国家を支える政治や生活を支援する能力を持った家から、天皇にとっての娯楽である蹴鞠を教える家、また、歌を教え、作り、編纂する責任を持つ家・・・・日本という国家はそのような確固たる専門家の家を一種の国家公務家として永続的に雇ってきたのである。
であるとしたなら本阿弥家は刀剣のスペシャリストとして、同じ芸でも異なるが冷泉家のような存在になれるのではないかと考えた。
始祖の五条長春にそのような深慮遠謀があったかどうかわからないが、六代目の本光からはそのあたりの発想が出てくる。ちなみに本光は光悦の曽祖父にあたる人物である。
この家には明確な目的の下で家格を築き上げた、一種の不気味さがないわけではない。というより、そう感じさせるものがある。それは明らかにたとえば冷泉家などとは違う意味を持っている・・・そんな、背景の中で極めつけの存在が必要となった。空前絶後の存在である。本阿弥家としては待ちに待った能力の出現である。本阿弥光悦である。

日本のレオナルド・ダ・ビンチに匹敵される才能と言われるが本当にそうだろうか?レオナルド・ダ・ビンチという人物の神の如き能力は彼自身が描いた絵を客観的に見ればよく分かる。しかし、光悦の場合、光悦が単独で時代に先駆けたものを創造しえたものはどのくらいあるだろうか?彼の書が優れていると言ってもそれは俵屋宗達がいたおかげで認められており、かれの作った茶碗でも長次郎のそれと比べて、どれだけ優れているのか?
漆器などの工芸品にあってはどこまで彼が関与したかどうかわからない。
 じゃあ、誰がそれらを全て光悦の天才に帰したかというと本阿弥家なのである。私はそのあたりのしたたかな演出を誰もが口には出せないのに感じているから、光悦に関する研究をしないのではないかと思わざるをえない。よく考えるとそれほどでもないのですよ?ということになってしまうのではないか?
 松本清張は本能的にその壮大な何百年にもわたる虚偽を感じたからあのような短編小説を書いた。かれはそのような虚偽をとことん嫌う人なのである。そんな風に見られることを考えると光悦はもしかすると本阿弥家の犠牲者であるかもしれない。
 したがって、本阿弥家を鷹が峯から追い出してその特権を全て剥奪した時の政権はそのあたりのうさん臭さが分かったからではないか?と思わざるをえない。最近の研究では本阿弥行状記という自体の問題も指摘されていると言われている。たしかにあの本を視点を違えて読むといかがわしさがムンムン本の様な気がしないではない。
 ただ、そこに至るまでの五条長春の物語りは嘘偽りのない気がしないではない。いわゆる家譜でいう始祖の五条長春(妙本)⇒本妙⇒妙大⇒妙秀⇒妙壽までの家譜である。ところがこのあたりの情報がなく、誰の手にも負えない。だから面白いのかもしれない、もしかするとここにこそ真の本阿弥家の価値のエッセンスが詰まっているのかもしれない。                                               
泉利治
2020年5月25日

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