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Column

蘭渓道隆

 万巻の書?に囲まれて生活するのが夢であったが私は決して本を読んで一日を過ごすことができるような人間ではない。最近は特によほどの本でないと持続性が保てない。つまらない本が多すぎる気がしないではないが、逆に歳のせいで好奇心がなくなったのかもしれない。そんな私が800年前に書かれたかなり分厚い仏教書をキチンと最後まで読んだ。
 「南渓録」である。鎌倉建長寺の開山である蘭渓道隆の説話集である。しかし、そこに書かれている難解さは信じがたい。蘭渓道隆が言いたいことが字面では分かってはいるがその本質は全く分からない。そんな分からない本を読み続けられた理由は夜中に目が覚めて、最も頭が冴えている時に読んだからである。それでも書いてあることの主旨がわからないのである。
 この本は日本に禅をもたらした名僧蘭渓道隆の説法録であり、ここの修行僧との会話録である。それらは基本的に常楽寺、建長寺、建仁寺の3つの名刹で行われたものである。その中で一番感動的なのは禅寺で修行中に亡くなった禅僧を荼毘に付した時に師である蘭渓道隆が火を転じる際に述べた言葉である。
 禅寺で修行をしている禅僧でも病に伏して禅寺で生涯を終える人も多くいるはずである。
そのような人たちを考えると言い知れぬ感慨をおぼえる。800年前の禅寺にも病室ある。涅槃堂とか延寿堂と呼ばれるそこで亡くなった僧、道半ばだったかどうかわからないが俗人から見ると何とはない寂しさを感じるがその亡骸に火を点じるのは師である蘭渓道隆である。彼はこう述べている。

「涅槃堂にて禅を参じ、参じて参じ尽くして、生死の大海をひっくり返す。一軒のぼろ屋はとうとう修理することは出来なくなったけれど、信ずるべきは家主(佛性)が永遠にいること。海上人よ。いるか。いるか。善財童子のように火炎の中で修行するあの勝熱婆羅門に参じて見よ。あの人は親しくあなたに近づき、あらためてあなたを導くことになろう」

一軒のぼろ屋とは己の肉体のことである。どんな人の中にも佛がいるという禅の教えの見事さと優しさが禅海という僧のこれまでとこれからを優しく語っている。蘭渓道隆の話はこのような優しさにみちたものである。禅の世界では死してもまだ未来があるのである。
持って生まれた本性が禅の厳しい修行の下で鍛えられた優しさがこの僧の真骨頂である。

 正直に言うとこれほどわからない本はなかった。たしかに訳の分からない話し合いを禅問答と呼ぶが、それは本当なのである。なぜ、そんなこと応え方をしたのか?それで何がコミュニケーションされたのか分からないし、その上、その答え方で悟りを披いたなどというのは想像の域を超えて、論外である。
 しかし、これが凡人の悲しさなのであろう。ゆえに知性ある西洋人、それも西洋的な頭脳構造で組み立てられたケストラーにはわかるわけはない。しかし、残念なことに私はケストラーの書籍を若い頃読んで、最も感銘とそれゆえ、人生の危機を救われた気がしないではないのであつた。

 日蓮は日本の宗教人としてはサボナローラのような過激な宗教家のような気がしないではない。いわゆる自分の教義が正しいことを立証するために敵をつくる、ということをやった点、かなり西洋的なプロモーションをやってのけた。目の敵にされたのは浄土宗と禅宗である。その他に天台宗や真言宗、奈良の六宗などがあったがそれらはそんなに攻撃の対象にはならなかったようである。
 特に目の敵にされたのは浄土宗で世の中の悪はすべて、浄土宗があることによってもたらされているという、まあ、とんでもない理屈で広めようとしたのだが。おかげで死を免れたが、島流しや首を切られるまでになったが未来の執権時宗を身ごもったと言いうような理由などで命だけは助けられた。その助言をしたのが蘭渓道隆だそうで、その後、道隆本人と会った際に御礼どころか悪態をついたという話も残っているが、結構、過激な人であったようだ。
 宗教家は迫害されるのが世の常であるようだ。蘭渓道隆も何度もそんな理由から鎌倉を追われ京都や信州、東北と身を置いている。しかし何年かして建長寺に舞い戻っている。やはり、彼を求める人が建長寺にはいたのだろう。
 人は非の打ち所がないくらい立派な人でもそれゆえ、悲運に見舞われる。蘭渓道隆の日本での33年間は同門の僧、たとえば兀庵普寧などにも良く思われなかったようである。蘭渓道隆の日本での禅の展開を中傷しているからである。しかし、今となっては蘭渓道隆が広めた禅が禅のスタンダードになっている。
 私はこの兀庵普寧という禅僧は本当に印可を得たのか疑っているくらいなのである。この人物の行動を知れば知るほど禅を齧った俗人のように思えて仕方がない。というのは禅というのは確かに師から一回くらい印可を与えられても悟りを披いたとは言えないからである。さまざまな師による、様々な公案で印可を得て初めて禅の達人になるからである。
 まあ考えてみれば東大で博士号を採って、次にハーバート大学で博士号を採り、その後、ケンブリッジ大学で博士号を採るようなものか?しかし、世の中はどこかの大学でとれば一応、博士と呼ばれるのと同じような気がしないではない。
蘭渓道隆は無明慧性で最初に印可を得た後、癡絶道沖、北礀居簡などそのほか多くの禅師についているようである。それはその人物の印可感でしかないだろう。蘭渓道隆の悟りのハードルが高かっただけなのだろう。己の人生はこの国とあると覚えた人生は見事に世界の禅に花開き、現代の多くの人の光明になっているような気がしないではない。
                                    合掌
2020年9月21日

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