ブランドワークス

Column

記憶の彼方より

 久しぶりというより始めてかな?インターブランド社のHPを空けてみた。厳密にいうと私の後輩たちが写真入りで載っていた。知っている人も3人ばかりいたが、知らない人ばかりで、昔、いた会社などはそっけないものである。
 しかし、この会社の在籍期間は二番目なのでいろんな意味で私の人生の一部になっている。一番、在籍期間が長いのはホンダである。しかし、この一番と二番の差は数か月である。なぜ、そんなことが分かるのかというと、年金の管理組織が私が在籍していた会社にひと月単位でカウントしており、その間の納めた金額と月数を管理しており、それが二ヶ月に一度もらう年金額を決定しているからである。三番目がブランドワークスで、四番目がPAOSである。ただ、一番、治めた金額が多いのは二番目のインターブランドであろう。年収が半端ではなかったからだ。
 いずれにしてもベスト4社は内容はともあれ私の人生であった。ここで学んだことが私の人生をつくってきたからである。私は、というより多くの人は職歴が人生を決定づけている。学歴という人もいるかもしれない。しかし、その威力は明治期に比べるとだいぶ落ちている。
 私の職歴は志向性をもっているのが特徴である。根底にあるのはデザインとマーケティングという2つの分野に絞られていることであり、その歴史が時代より少し早かったということである。
 その始まりはデザインという分野に着目したことによって始まるのだが、多分に世の中の誰かはデザインという分野の需要がこれから生まれるに違いないと思い、まず、学校を立ち上げた。その頃、デザイン学校などはなかったし、それに近い分野の大学は工芸意匠科などという学部名で呼ばれており、その名称は世間で言われ始めたデザインを顕すにはあまりにも貧弱かつ場違いな名称であった。
 その頃の無知だが、なんとなく新しいことだけには敏感な若者は直観的にデザインという分野の可能性のようなものを感じ取っていた。その一人が私であった。大学に行く当てもなく、それでいて何かを身につけねばならないと思っていた若者には、一応、学校として存在しているそこに入学することで内容はともあれ、社会的にはまっとうな方法であった。
 後で分かったことだが当時、私と同期の小学校、中学校の同窓生で、もちろん高校の卒業生も含めてデザイナーとして仕事をし続けた人は皆無であったようだ。そう考えると、現在の日本で最古のデザイナー部類に入ると言えるのではないか、まさに学名を・・・ザウルスというあれと同じである・・・・生きた化石・・・?になる。
 デザイナーという職業についていた人は私がホンダランドテックプロダクションに入社した時、4人いたが大学のデザイン学部を卒業した人は一人だけで、他の三人はいわゆるエンジニアであり、社内でデザイナーが必要な仕事が発生した時に手を挙げてデザインのプロジェクトにデザイナーとして参画し、その内にデザイナーの仕事をした人たちであった。
したがって、みなさん、図面は専門であったので上手かった。
 私はかれらに比べると、図面も、デザイン画も上手いとは言えなかった。だから、最初にクラシックカーをデザインする際にはだいぶ苦労したし、承認をいただいてから、ボディ図面を描く際はほとほと大変で先輩方の昔の図面を見ながら、独力でその手法をマスターした。ただ、良かったのはクラシックカーの王道を狙って、ボディはFRPなどを選択することを拒否したので、かえって、だれも経験がなかったことで先輩方と同じスタートラインにいたので、その分、自分の能力をだいぶごまかせた気がしないではなかった。
 私は本物のクラシックカーと同じ鉄板で作り、屋根はキャンバスにしたかったが、それはFRPにしたが仕上げを布のように見える仕上げにしたので、信じられないくらいの仕上がりになった。ともかく、コンセプトは本物のクラシックカー、エンジンがホンダ純正のGエンジンだが?エンジンをかけると、エンジン音が鉄板のボディを揺らして。遊戯車両には見えない迫力があった。
 一番傑作だったのは前を照らすライトであった。私はそれらが真鍮製で作られているのでそのようにデザインし図面を描いたのだが表面の仕上げに「金メッキ」と指定したので
資材課の課長が悩んで、真鍮で作ったライトに表面の仕上げが金?で唸ってしまい。結局、予算もオーバーしそうなのでFRP製になってしまったが、多摩テックに出荷する最後の日に塩崎専務が見に来て、工場で一人タッチアップしている私のそばに来て“よくやった!ご苦労さん”と言ってくれた。
 私にしてみれば最初から遊戯車両など創るつもりはなく、本物のクラシックカーを与えられたスペックの中で再現しようとしたのであった。あとで考えるとこれが一貫して私のデザインポリシーになったのであった。それ以来、私はごまかさないデザインをポリシーとして13年間やったのである。今でもそのデザイン方針は間違っていないと思うし、そうでないようなデザインでつくられたものはすぐに淘汰されている。思い出すと楽しい13年間であった。                      
 2025年5月19日T>I

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