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Column

松本清張の世界

ウィトゲンシュタインの名言“世界と生とは一つである”が本考を書くときに最初に浮かんだ言葉である。そんな感じがした催しであった。今、「巨星 松本清張」が神奈川近代文学館で開催されている。彼の本は本当に面白かったのでほとんど読んだといっていい。氏のあの世界、きれいごとなど世の中にはない、人間にはない、というあの世界が活字になったということが惹きつけられた理由である。ただ、最近ではそれ的な話ばかりがネット上でも、ニュースでも駆け巡る。外務省のエリート大使が6,7年前セクハラをしたというような、セコイ話が全国の視聴者に知らされる時代なのだ。セコイ話というより、いわゆる人間の暗部、いやらしい部分、それがどんな人間にもある。とくに一見そんなこととは無縁の高潔な人物にもあるという。ことを人生を通して、それも活字を通して40年近く書き続けてきたというのが松本清張である。
 それを読むと普通の人間、取り立てて何も自分には特別な才能や財産、家柄がない人は何となく留飲を下げる、そこが痛快というものを書き続けてきた作家である。私は必ず松本清張と司馬遼太郎を対で考える。この二人、ほぼ同じ時代に生きて、同じくらいの量の小説を書いて、多くの読者を獲得してきた作家である。方や陰、方や陽。しかし、共に同じくらいに面白い。松本清張は普通以下の人間を書いて、司馬遼太郎は普通以上の人間を書いて・・・・
 二人の人生等を考えながら松本清張を読むと第一に思うのは貧しい環境でろくな教育も受けられなかった自分の宿命のような怨念を感じることである。それゆえに彼は人に言えない屈辱を受けてきたのだろう。俗な世間はそんな人間を容赦なくいたぶる、松本清張は自分もそのような屈辱を人より多く味わったのではないか?それは彼が研ぎ澄まされた感受性と才能を持っていたからだ。貧乏で学歴がないからこんな屈辱を受けるのだ。ということを彼は書いている。しかし、この先が彼の独特なストーリー展開なのだ。そんな人が自分のそのような屈辱的な過去を消し去るために嘘をつくのが耐えられないのだ。そんな苦労人を容赦なく糾弾する。このあたりのごまかしが許せないという正義感がある。彼に言わせればそんな貧しい、悲惨な自分の過去でもごまかさないということが正義なのだ。彼はそういう人生を歩んだ人がなぜ自分の過去を恥じることがあるのか?ということなのだろう。
 彼はそんなことから自分の過去について克明に「半生の記」では書いている。かれにとってはそんなことを書いても現在の威光がそれを打ち消すとでもいうように。また、いわゆる立身出世した人がそれゆえ、かれの努力の証がそれ以上の威光につながるようにである。彼はそんなことで生涯において既得権力に歯向かってきた人である。たとえば古代史などでいわゆるアカデミズムに対しても真っ向勝負を挑んで、戦ってきた人なのである。
 議論挑まれた高名な学者はどう思ったか分からないが、狂犬にかみつかれたというような感じだったのではないだろうか?アカデミズムの反応は分からない。松本清張に言わせればアカデミズムもこのあたりに対しては共同で論陣を張るわけではなく、松本さん的に言えばあいつが狂犬にかみつかれているのを遠くから眺めているという感じなのだろう。
 松本清張の本を読むと人間ってみんな意地悪なのだ!と思ってしまう。その行き着いたところで犯罪が発生する。そのような人間の悲しさがあえて言うならば彼の文学性なのかもしれない。そう考えるとかれが直木賞ではなく芥川賞をもらったことがかれの生涯において最も期するところではなかったのかと思う。彼の中では直木賞より芥川賞の方が格が上と思っていた気がするからだ。しかし彼はその後一貫して直木賞的なものを書き続け、国民的作家になったといえる。
 松本清張にかかってはどんな人間でも嫌な人間に見えてしまうから不思議である。彼はそういう人間に対して容赦しない。彼は銀のスプーンをくわえて生まれてきた聖人君子がともかく嫌いなのであろう。それ以上許せないのは貧しい素性を隠して聖人君子ぶっている奴である。「砂の器」や「ゼロの焦点」はそのような人間を扱った悲劇であるが、そのような目で見て勇み足どころではなく大失敗した作もある気がしないではない。ややもすると名誉棄損で訴えられそうなきわどい展開のものもままあるからだ。
その典型はクーデンホーフ光子をテーマにした「暗い血の輪舞」という小説である。光子の残された写真が伯爵夫人然とした写真ばかりだが、彼女しか映っていない写真なので、どこか写真館で撮ったもので伯爵夫人もどきを演じていたのではないかと疑い、西洋の貴族社会という中でのスターであった彼女をペテン師呼ばわりした小説なのだ。彼はその本を書くためにクーデンホーフ伯爵家の生家まで尋ね、そのペテンの証拠を探す。そのプロセスがまた、犯罪捜査のような面白さがあるのだが、運よく松本氏が亡くなってまもなく、クーデンホーフ光子に関する様々な記録、勿論、多くの貴族と映した写真等も発見されて、彼女に関することが松本清張の推理や仮説通りではなかったことが証明されたのである。
 私は松本清張が亡くなった後にそれらが発表されたことになんとはない、彼に対する心配り、それが誰であるかわからないが、そんなことを感じたものである。
氏が亡くなってからその最後の作品である「神々の乱心」は読むことができるようになり、私も読み始めたがなんとはない違和感を覚えたものである。一言で言うと筆力の絶えである。これまでのような切れがなく、なんとはない物語の齟齬を感じてしまい途中で読むのをやめてしまったのであるが、今回の催しを通じて様々なところで松本清張の作品の解説などがされるようになり、その「神々の乱心」もテーマ設定や動機等はさすが松本清張だなと思うような意図で感服した次第である。
 あの松本さんも歳には勝てないのである。多分それを書き始めたのは80歳前後であろうが、あれだけの人でも私でさえそう感じてしまうくらい筆力が落ちるのである。しかし、これを期にそのあたりを割り引いてその遺作ともいえる小説を読んでみようかと思う気になった。
                                 文責:泉利治
2019年5月20日

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