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Column

三島由紀夫の文章

 三島由紀夫の小説を数ページ読んで恐れ入ってしまった。たとえば、恐れ入ってしまったと書いたが”恐れ”と打つと親切に出てくる標準統合辞書に表示される6つの“おそれ“漢字が彼の頭の中にあって、その時の”おそれ”のどれが作家の頭の中にある意味にふさわしい漢字なのかで選択するのである。そんなのは作家としては当たり前のことであるということなのだが、いわゆる無限にある意味の一つ一つに自身の感性に適応する言葉を選び抜いて三島由紀夫は文章を紡ぐのである。
 私は文章を書くのは好きな方なのだが、いわゆる文豪と言われる人物の本はあまり読んだ記憶がない。森鴎外くらいだろう。それも記憶に新しいのは「渋江抽斎」なので、少々特殊かもしれない。
 三島由紀夫のそれは才能なのであろう。豊かな感性と豊かな語彙とそれを駆使する文章創作力。それが相まってあのような作品を生み出すのであろう。ただ私には衒学的でくどいの一言でこのようなものは個性という範疇に入るものであり、判断のしようがない。ただ、これが文学なのかもしれないが?私は本をそれなりに読んだが、とんと文学と名の付くものを読んだ記憶がない。特に日本文学は、である。しかし、ノーベル文学賞候補になる人なので、それらの作品は文学ととらえられるということなのだろう?
 私にとって文学をめざすとは芥川賞を獲ることがその登竜門であり、小説家をめざすなら直木賞を獲るということなのだろうくらいの認識しかない。ただ作品を読む限り芥川賞を得た作品を読んだ限り感想としては・・・書き物における挑戦的な試みだがいたって個人的な自己満足であり、つまらない、わがままな書き物のような気がしたものである。したがって、文学とは観念と感情的記述の多用への挑戦のような気がしないではない。
 三島の「金閣寺」を読んでいるのだが、これは絵空事ではなく、いわゆるドキュメンタリーでありノンフィクションなのだがかれはこのテーマを文学にしようとしているのである。この作品から思うのは前記したが、豊かな感性、豊富な語彙、その語彙を選ぶ明確な基準と判断力。ここで思うのはこの語彙を習得した能力、これは早熟な人間のみが成しうる結果でしかないだろう。いわゆる、広辞苑と大言海が頭の中に息づいているのだ。これらの能力は発達理論から言うと多分、5,6歳から言葉や文字に対しての興味と訓練なくしては成し得ない。
 おかしな比喩だが昨日のニュースで15歳の女の子が4回転ジャンプを立て続け飛んでいる映像を見たが、それはプロの選手でも成人した後でいくら訓練しても1回の4回転ジャンプを飛ぶことができないのが現実で、いわゆる、人間の成長期にそのような訓練をしないと成し得ない能力の一つなのである。結果としてその人は天才と呼ばれるかもしれないが、よく考えると天才なんかではなく、たまたまタイミングが的確だっただけでそれ以上でも、それ以下でもないだけである。
 三島の文章を読んで感じるのは芸術家のすべてに言えるかもしれないが、自分の文章に酔っている自己陶酔的な文体であるということである。文学とはコミュニケーションの一形式であると思うが、三島にとって文学とは自分の語彙力と感性を絶えさせないための修練なのではないかということである。当人は大人になってボディビルをやりはじめて、男らしい肉体をつくり上げたが、あれと同じことを書き物でやっている気がした。ここまで書いてから三島由紀夫についてwikを読んでみると私の書いたことがほぼ裏付けられた気がしている。
 ただ、間違いないことは三島由紀夫の文章はよく考えると、いわゆる語彙の習得という修練を積まないと会得できないものを常人の数百倍のスピードと記憶力で我が物にした能力が中心にある。私のような凡人には理解できないが頭のいい奴は教科書を一回読むとすべてが頭に入る輩がいるそうであるが、何度読んでも頭に入らないわが身を振り返ると信じられない話である。
 ただ、生理的のそのような頭を持った人が努力をしたならばどうなのだろうか?最近、大学に関する資料を探していた時にハーバート大学の午前4時の図書館のスナップ写真を見たが暗い図書館に並んだデスクの一つひとつに学生が座り、スタンドの光が煌々と机上の書籍やノートなどを照らし出している。3時30分に起きて顔を洗い、着替えて必要な物をもって寄宿舎から図書館まで行って、勉強をスタートさせたとしたなら・・・毎日がそうなのであろう。仕事でご一緒させていただいたハーバート大学のOBの話では、冬には雪が降るが雪かきのプライオリティが高いコースは寄宿舎から図書館に至るコースであるという。学生が雪のために図書館に行けないということがないようにという大学の配慮であるらしい。何が言いたいのかというとハーバートに入るくらい頭のいい人間が人一倍勉強するということなのである。頭のいい人間がこれまで人類が築き上げた叡智を強欲に吸収しようとしているということなのである。そうすると三島由紀夫のような才能を獲得できるということなのである。
 
 三島由紀夫についての半世紀前くらいの記憶と現在進行形で三島を読んで書いている自分の中で少なからず唯一、非凡な才人に対して勝っていると思われる、生きながらえているという事実だけをもって、彼という人間を斟酌しているのだが、彼の存在はあの時代ならではの一つのスタイルを象徴している。というのは我が家に何冊かあの時代の本があるが、今となっては黄ばんだページ、手描きのレタリング文字が印刷された表紙の本にふさわしい文体の小説のような気がするからだ。
 「金閣寺」と一緒に水上勉の「金閣炎上」を借りてきたが、数ページ読んだ限りではこちらの方が現代的な本のような気がするのはこの本がいわゆる金閣寺事件を主題とした事件簿的なノンフィクションだからかもしれない。物語ではなく事実は古くならないのだ。
                                    泉利治
2019年10月14日

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